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パラオの人達と日本兵

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パラオの人達と日本兵


パラオは19世紀後半、スペインとドイツに支配されていました。

白人の統治時代にには、賃金なしで倒れるまで働かされ、倒れればむち打ちの罰を与えられる日々。

奴隷のように搾取、虐殺され、パラオの人口は半世紀で90%も減少したそうです。

しかし、ドイツ第一次世界大戦で敗れたため、講和条約で日本がパラオを統治することになりました。

日本が統治してからは、パラオに学校を作り、病院、道路、水道、電気等さまざまなインフラ整備を行ったそうです。

さらに、パラオの人々に対し、医療、教育の支援を行い、日本人とパラオ人は共に暮らし、日本の歌を一緒に歌ったりしていたそうです。

しかし、1944年になると、戦況は日本に不利となり、いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になりました。

パラオの人達は、日本を尊敬し感謝の思いがあったので、日本軍と一緒に戦う決意でした。

そして日本軍の守備隊長である中川州男に「自分達も一緒に戦わせて欲しい」と意志を伝えました。

しばしの沈黙の後、体調は突然このように叫びました。

「帝国軍人が貴様ら土人と一緒に戦えるか」

パラオの人達は、自らの耳を疑い、裏切られた想いで、悔し涙を流しながら船へと帰っていきました。

パラオの人達が船に乗って疎開するとき、日本兵は誰一人見送りに来てません。

しかし、船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出て、かつて一緒に歌った日本の歌を歌いながら手を振って彼らを見送ったのです。

先頭には、笑顔で手を振るあの中川州男隊長がいました。

その瞬間、パラオの人達は悟りました。

あの隊長の言葉は自分達の命を救うためのモノだったのだと。。

結果日本兵士が全滅しましたが、パラオからは死人は1人も出なかったそうです。

終戦後の1947年、島に戻ったパラオの人達は多くの日本兵の亡骸を見て涙し、彼らは島中に

散らばる日本兵の遺体ひとつひとつを綺麗に片付け、埋葬してくれました。

パラオの国旗は独立した際に国民からの公募で制定されました。

『日の丸』がモデルと言われ、太陽に照らされた満月はわざと中心を外してデザインされており、これは日本に対する礼儀からと言われています。

ミノル・ウエキさん(当時の駐日パラオ大使)
日本軍は、ペリリュー島民を全員疎開させることで保護してくれた。
だから島民に死傷者は出なかった。
日本軍への感謝は何年経っても忘れない


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