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「(K)not」第五十話 結

 郊外の霊園は僕らの他に誰もいない。周りのお墓を見るといろんな大きさや形があって、でもみんな何処かに十字架が彫られているからやっぱり此処はキリスト教の墓地なんだと思う。宗派まではわからないけれど。目の前の雪が積もった十字架に刻まれたアルファベットがあの娘の名前なんだろう。

「メリークリスマス。やっと、来ることができました。」

 白く浮かんだ言葉は雪が溶けるみたいに消えていく。十字架の下の、冷たい土の下の、もうその人では無いものに語りかけてどうするというのだろう。でもふと思う。意識を失った僕に、ずっと眠り続ける僕に、皆んな今の爽みたいに話しかけていたんだろうか。一年もずっと?

 ふと脳裏に鳥籠の形をした硝子のテラスにいた記憶がぎる。嵐の夜、僕は何かに怯えて、蹲って目を閉じて、両手で耳を塞いでいた。あの硝子の鳥籠にも雪は積もるのだろうか。

「きちんと伝えないで、怯えて、黙って逃げてごめんなさい。本当は、あの日にちゃんと言うべきだったし、言えたかわからないけど・・・だから今日は、きちんと話がしたくて、また聖名と一緒に来ました。」

 急に名前を呼ばれて驚いた。そうあの日、高校一年の夏。あの娘に呼び出された爽に一緒に来てくれと頼まれて中学校に行ったんだ。真夏の太陽が旋毛を刺す様に照り付けるグラウンドは目が眩むほど真っ白で、大きな向日葵の花壇の前に僕が日傘を傾けて二人並んで立ってた。今みたいに。

「去年の春、中学を卒業してから毎日誰かに見張られていると感じてました・・・その誰かが怖くて何も出来なかった。正直、君が何を思って後を付けたり物を盗ったりしたのか、今も分かりません。」

 爽はいつも何かに怯えている。身体が他人ひとより小さくて弱いからなのかいつも自信が無かった。そういえば元気一杯な爽は見たことないな、でもそれが爽のフツウだから特に気にしなかった。だって僕にはよく喋るしよく笑うもの。

「あの日、君はどうして飛び降りたのか、聖名を巻き込んだのはどうしてなのか。どうして君は死ななきゃならなかったのか。」

 飛び降りた先に僕が居たのか、僕が居たから飛び降りたのか。それとも。

「どうするべきだったのか考えたけど、やっぱり何も分からなかった。分からないことばっかりだった・・・でも自分と向き合う時間は、いっぱい、嫌になる程あったから・・・」

 爽が俯いてこんな声で話す時は、覗き込まなくてもどんな表情かおをしているか分かる。向日葵の花壇の前でも爽は同じ顔をしてた。だから僕は。

「やっぱり初めて会った日にちゃんと言えば良かった。ボタンは・・・その、あげたんじゃなくて、勝手に取られたってゆうか。だから・・・その、俺は、君とは、お付き合い出来ません。ごめんなさい。」 

 胸の前で組んだ爽の手は指先が赤くなるほど力んでいた。成程、人を振るのは渾身の力が必要なんだ。僕はまだ人をフったこともフラれたこともないけど、とりま何で駄目なのかは知りたいと思うなぁ。

「あ、や、でも君だから駄目って訳じゃなくて・・・ん?でも色々なことされたしな、えっと違くて要は俺が・・・俺は。」

 僕の心の声が聞こえたのか、四方に散らかった言葉いいわけをやっと一つに束ねてそこまで言うと、爽は深く息を吐いた。 突然、髪に積もった雪を犬みたいにブルブルと振って落とし、爽は再び前を向いた。

「俺は、恋愛する意味が分かりません。だから君にあげられるものは何もありません。」

 凍えているからなのか、爽の声は震えていた。 

「それは多分俺がアセクシャルだから。」

 昔、お父さんに聞いたことがある。

 お父さんたちの学生時代は「価値観の多様性」についていろいろ学びましょうって世の中が動き出した頃で、学校や会社でもセミナー受講が義務付けられていたらしい。僕らには今更すぎてちょっとよく分かんないんだけど、まあその甲斐あって「個人の価値観を尊重しない奴はクズ」っていう価値観が出来上がった。だから表向きは皆んな認めざるを得なくなったんだけど、その結果セクシャリティなことまで曝け出すことになっちゃて、わざわざカテゴライズした性的嗜好を学校の授業で習ってたんだって。LGB・・・何だっけ?もぅ誰が誰を好きでもどーでも良くない?大きなお世話だなって思う。

 けれど、

 アセクシャルはざっくり言うと、エッチなことをしたくない・されたくない人を指すカテゴリだ。

 カテゴライズなんてどーでもいいはずの僕が、脳天から稲妻に打たれた様な気持ちになっているのはどうしたことか。いつの間にか爽は自分と同じなんだと思い込んで、そんな話はしたことなかったな。自分のことをちゃんと伝えることは良いことだ。うん。傾げた傘に積もった雪がドサリと音を立てて落ちる。僕はしばらく氷のように固まって動けなかった。きっと、寒さのせいだ。そうに決まっている。

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 さすがにこれ以上このままでいると凍え死ぬと思っていたとき、肩に雪を積もらせたまま、爽は耳は真っ赤にして「帰ろっか。」と言った。振り返らない爽が今どんな表情をしているか、僕は分からなかった。

「うん。」

 僕は返事をして、何事も無かった様に並んで歩き出す。雪に覆われたビニール傘は、あの日の日傘みたいにまた真っ白になっていた。

 霊園の出入口から続く道はひっそりとしていて、来る時に着けた足跡はもう消えていた。その上に積もった雪を踏みしめて僕らはまた足跡をつける。その途中滑って転びそうになりながら、その度に固く手を繋いで歩いた。冷えた体を寄せ合うと体が邪魔な感覚。凍えた唇から出て来るのは白い息だけ。ただ心と心が並んで歩くのに言葉は要らなかった。

 帰りの電車の中、向かい合わせの席に着くと、お互い寒暖差で上気した林檎の様な頬と垂れ流しの鼻水が可笑しくて思わず噴出した。笑いは暫く止まらずお腹が痛くて涙が出てきた。爽がハンカチを貸してくれたから思いっきり鼻をかんでやった。

 向かいで爽がウトウト微睡んでいる。やっと落ち着いてシートに凭れると薄暗くなった車窓に硝子のテラスが浮かぶ。彼処での時間はこの電車の中みたいに、ずっとこのままであって欲しいと思うのに似ていた。中にいる間は出たいとも思わなかったけど、確かに僕の時間はあの中に閉じ込められていた。入口も出口も無い、外の時間とは無縁の、無限の、とても居心地が良い隠れ家。

 でも、僕らには帰る世界ばしょがある。

 ああ、きっとこれだ。僕が未来になり過去になってゆく実感。それはとても幸せなことで、物質的で限りある時間の中を生きるから、二人で帰ろうと決めたんだ。だって家に帰れば待っててくれる家族みんながいる。遅くなっちゃったから怒られるとは思うけど。

 こうして僕らは家路を歩き始めた。
 
  

序〜第三話、はてなブログからの転載です。