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アイコについて

「夢は普通の会社でOLさんになること」

新卒で入社した会社で最初の一年間に、秋田、宮城、大阪と研修で住む場所を転々とした。まだ何の利益も産んでいないド新人に会社は随分時間とお金をかけてくれていたんだなぁと今思えば感謝しかないが、当の本人は緊張と忙しさに目が回りそうになりながらも、親元を離れ知らない土地で一から始める生活を、引っ越すたびに満喫していた。宮城での研修を終えた私はその後大阪に仮配属された。その時の話を書こうと思う。もう20年以上前の話だけれど。

盆明けから住み始めた大阪での生活にも慣れてきた頃、一緒に大阪に来ていた同期の女の子と「今度の休みに梅田のショーパブに行ってみよう」という話になった。いわゆるニューハーフショーが見られるお店だ。選んだのは、初心者に相応しくガイドブックにも載っているような有名店だったと思う。

広くはないステージと店内の通路を目一杯使って繰り広げられる賑やかで華やかなショーを、垢抜けきらない小娘2人でポカンと口を開けて観た。お姉さん達が動くたびに香る香水の匂いと、キラキラの衣装とピンヒール、濃く引かれたアイライン、その縁でバサバサそよぐほどのつけ睫毛、たっぷりと赤く塗られた唇に圧倒されてちょっと頭がくらくらした。

ショーが終わると彼女達は各テーブルについて接客をする流れらしい。いかにも金遣いのショボそうなガキである私達のテーブルには、こう言っちゃなんだが群を抜いて地味で、盛り上げるのもお喋りもあまり得意ではなさそうな若い人がついてくれた。

亀子です、と名乗った私達より全然華奢で色白なその子は、私達と同い年だった。関東地方の高校を出て仕事を転々としながら、今回初めてこういうお店で働いているとのことだった。地味でぎこちない感じがしたのも無理はない。私達同様、彼女(彼)もまた新人だった。

バブルは弾けていたけれど、まだまだ賑やかでギラギラした時代だったと思う。やや下品な嬌声で盛り上がる店内で、私達のテーブルだけが高校の昼休みみたいな雰囲気に包まれていた。

「好きな人に想いを伝えたこともあったが相手に驚かれてそれきり友情ごと壊れてしまった」とか「髪の毛サラサラだね、シャンプー何使ってるの?」とか「私達も彼氏いないんだよね。知り合いも友達もいない大阪に来てもうすぐ3ヶ月だよ」みたいな話をしていたと思う。その途中で彼女が言ったのが冒頭のセリフだった。

お店の先輩達の多くはお金を貯めて海外で手術をしている。それが一番手っ取り早いからだが、自分は性同一性障害であるという診断のもとに出来れば日本で保険適用で手術を受けたい、そしてその暁には堂々と女性として会社勤めがしたい、と。

お店を出る前に連絡先を交換した。

「今度は友達として会ってくれる?」と言われて「もちろん」と答えた。どうしてかわからないが今の彼女には自分が必要な気がしてしまった。

その日からあまり日を空けず私のアパートでその時の同期と3人で鍋パーティーをやったりもしたが、同期は「亀子ちゃんは何も悪くないのに本当に申し訳ないんだけど、一緒にいると自分の頭が混乱してどうしても気持ち悪くなってしまう」と言って早々に彼女との交流を絶ってしまった。ショックだった。そう言って突き放せることにもだし、そうやって自分のモヤモヤをはっきり態度に出せる彼女を少し羨ましく感じている自分にも。

ホルモン剤の影響で頻繁に更年期のような心身の不調に悩んでいた彼女から電話が来るのは、決まってお店が終わり帰宅する2時とか3時だった。7時には起きて出勤しなければならない私にとっても「寂しい、苦しい、仕事しんどい」と彼女が電話口で訴えるのを聞きながら寝落ちする日が続くのは、如何ともし難い不条理を突きつけられるようで、何も言ってあげられずかなり辛かった。そして彼女が「こうして聞いてくれる人がいて嬉しい」と言って泣いたりする度、それをほんの少し重たく感じている自分に気づかされることも、やっぱり辛かった。

そういうことじゃないんだと分かっていても、自分が何の努力も感謝もなく女であることすら時々心苦しかった。

9ヶ月ほど続いた大阪での研修が終わり、私は東京の本社に配属されることになった。彼女に深夜の電話にあまり付き合えなくなることを伝え、代わりに東京の住所を教えた。

「手紙出すね」と言った私に、彼女は

「私の名前、アイちゃんのアイの漢字を貰って亀子から愛子に変えてもいい?」と言った。

キティちゃんの可愛いレターセットで東京の新居に届いた彼女からの手紙は、文字すら私より華奢で愛らしかった。そして差出人の名前は「○○愛子」になっていた。

殆どの文通がそうであるように、私達の往復書簡も徐々に間隔が空きやがて途絶えた。

最後に彼女から届いた手紙には「お店のお客さんの紹介で昼間の会社でOLとして働くことになりました。私の性別のことはその人しか知りません。近々お店を辞めて会社の近くに引っ越すつもりです」と書いてあった。

新しい住所は書かれていなかった。


私の名前から愛をお裾分けした彼女が、誰かに愛されながらどこかで賢く逞しく生きていてほしいな、と今も時々思い出す。

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※性転換手術の話をしていた時、彼女が埼玉医科大の名前を言っていた気がして今回初めて調べたら、ちょうどその当時日本国内初の公式な性別再判定手術がその病院で行われた、という記事がすぐに出てきた。ネットもスマホもないあの頃、彼女はかなり詳しく色々な情報を集めて将来の予定を立てていたんだと思う。当時の私なんかの何倍も真剣に冷静に自分の人生に葛藤しながら向き合っていたんだろうなと、あらためて気づいた。私が彼女と連絡を取り合っていたのはごく短い期間だったので、その間に彼女が手術を受けることはなかったが。




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