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それでも続けてしまうことが、いつか「自分にしかないもの」になる

ずっと観ようと思っていた『THE FIRST SLAM DUNK』をついに観た。

凄かった。とにかく凄いものをみた。

エンドロール後に現れた最後のシーンが一番優しく温かいタッチで、終わった瞬間に立ち上がって拍手したくなった。井上監督に、そして10年以上の歳月をかけてこの物語を最後まで作り上げてくれた、全ての人たちに。
2022年の終わりから2023年のはじまりにかけて、この映画を公開してくれてありがとう、と心から思った。

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何かを失い、そこから立ち上がり、再生していく。それが人間なのだと改めて気付かされた映画だった。
そしてそれが「生きる」ということなのだ、ということも。

(ここからネタバレ含みます)

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リョータを主人公に選んだのは、一番背が小さく、他の選手に比べて華型でもなく、漫画でもとりたてスポットライトをあてて描かれることが少なかったから、かもしれない。

桜木のように「天才」を自称できるほど自信もないし、「平気なフリ」をすることで強くみせていることを自覚している。

ゴリのような風格もなければ、人を束ねる力もない。どちらかと言えば「空気を読む」タイプだろう。

流川のような「本当の天才」でもなければ、三井のように「誰にも負けない技」を持っているわけでもない。エース級の選手から不良になり、再度舞い戻るという華のあるエピソードもない。

兄のように、小さな頃から開花させるようなスキルもない。

ただひとつ。
リョータだからこそ「ある」ものは、「それでも」バスケを続けてきた、ということだと思う。

バスケがあったから生きてこられた。
バスケに支えられて生きてきた。
その実感があったから、何があっても辞めなかったのだと思う。
たぶん辞めたくても、「辞められなかった」。

それは兄から受け継いだものだから、かもしれないし、1人になったリョータの「逃げ場」として必要だったから、かもしれない。沖縄で兄が1人で泣いていた、そして事故のあとリョータが1人で泣いた、あの洞窟のような。

今思えば宮城家は、みんな1人で泣いていたな。お母さんも、お兄ちゃんも、リョータも。そしてきっと、妹も。
少しの綻びで壊れてしまうことが分かっているから、1人で泣く。限界まで張り詰めた糸をなんとか切らさぬよう生活を続けていくための、家族の暗黙の了解だったのだろう。
私もそうだった。弟が死んでからの数年間はそうやってなんとかやり過ごしてきた。1人で泣いて、平気なフリをしてここまでやってきたのだった。

そしてリョータも私も、1人でいたからこそ、1人でいる人と出会えたのだと思う。
リョータと三井のように。

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リョータがお母さんにリストバンドを渡したとき、ああ、リョータは許したのだな、と思った。兄から自分を解放することを。兄の人生ではなく、自分の人生を生きることを、許可した瞬間。

「自分には必要ない」と切り捨てるのではなく、「もう大丈夫」という兄と母へのメッセージのように感じた。目に見えるものがなくても、一緒に生きているから、と。
あのときのリョータは、もう「平気なフリ」はしていなかった。

私も15年かかって、やっとその感覚が分かるようになった。なぜかは分からないけれど、「もう大丈夫」と思えるようになったし、目に見えなくても一緒に生きていると感じられる。

彩子さんがリョータを信じきるところも良かったな。あんな風に誰かを信じることを身を挺して与えられる人でありたい。「あなたは大丈夫」とちゃんと真実味を持って伝えられる人に。

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映画館を出たあと、映画の余韻を味わいたくて、久しぶりに街を散歩した。
今日は気温が高く一気に雪解けが進んで、歩道はぐちゃぐちゃで歩きにくかったけれど。
それでも、春の光に反射する水たまりも、冬と春が混在する埃っぽい匂いも、なんだか悪くないなと思えた。



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