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余白はエネルギー

私はどうにも何かを「得る」ことをしないと勿体ない、というか、その行為や実感に価値を見出す人間なのかもしれない。

少しでも無駄な時間がないようにと、料理をしながら音楽やラジオをかけたり、お風呂に入りながら映画を観たり。
いつでも何かを得ようとし、少しでも「今より良くなりたい」と思っている。




昨日ヨガを体験し、言われた衝撃の一言。

「ゆきさん、疲れてます?
エネルギーを循環させるためのエネルギーが足りていない」


初対面で「身体から発するエネルギーが足りてない」と言われたことの衝撃と、
「やっぱりそうなのか」という安心とで、一瞬パニックになった。
この四つん這いで右足だけ上げたポーズでキープしてる、今そんなことを?


そのあと
「呼吸をすることで、身体に余白が生まれることを意識してください」とも言われた。


余白。

意識した事がなかった。

文章にも余白があると読みやすい。
音楽にも休符があると、曲にメリハリやダイナミクスが生まれる。

頭では分かっているものの、生活の中での余白は、どうしても無駄な時間に思えてしまう不思議。
だって、何もしないってことでしょ?




ただいま、無理矢理作った五連休中。
事前にびっしり予定を立てて、やりたいことを全部やるんだ!とはりきっていた。
ところが。一日動いたら次の日に動くエネルギーがもうないのだ。毎日可愛い服を着て、お化粧をして、出かける予定だったのに。
ちなみに今は、起きた時のままの格好でこれを書いている。午後13時。


頭をパンパンにして、もう入らないのに、詰め込もうとする。
思考回路も回らなくなり、身体の循環も滞り、イライラし身体も重くなる。
現に最近は新しい本も読んでいられなくなり、前よんだ漫画やドラマをぼーっと見ることが多い。
新しいことが頭に入ってこないし、何となく避けてしまう。


「余白をつくること」。
昨日のヨガの先生の言葉が蘇る。

「やる」ことを減らし、何かを得ようとすることを、一旦やめてみようか。


試しに、家にいる間ずっと流していた音楽を止めてみる。その中で食事をしてみる。
あ。なんとなく、食べることに集中できる。

食べることを楽しむための音楽だったのに、いつの間にか「何かを聞きながら食べること」という行為そのものが目的になっていたかもしれない。
そして、その行為を「出来た自分」に満足していたのか。



「出来る」ことに執着していた。
これが出来たから良し。
あれが出来たから今日は良い日。

to doリストをこなしていくように。
仕事をこなすように、家の中でも過ごしていた。


そのことに気づけた時、
ずっと頑張って働いてきたことを、自分で認められるようになった。
「もっと、もっと」と、足りないことに目を向けていたけど、
キャパオーバーになっていたことにも気付けた。

もうto doリストは「出来る自分」になるために、こなさなくて良い。
「自分が楽しむため」にリストをつくっていいし、もっと言えばこなさなくてもいい。出来なくてもいい。

まずは「何もしなくていい」。
それでも充分だということに、心から思えるようになれたらいい。


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