サッカーというバブル
1. 0か100で生きることの代償
昔から人一倍頑固な性格だったように思う。
人間的に子どもであるといえばそれまでだが、自分でこれと決めたら譲らない性格が自分をここまで連れてきてくれたようにも思う。
頑固とは、良く言えば継続する力であり、悪く言えば変化できないことである。
要するに、この性格も使いようによっていい方にも悪いほうにも転がるということだ。
頑固とは0か100で生きるとも言い換えられる。
昔から嫌いな人や出来事に対してシャットアウトする癖があった。
最近になってもその傾向は現れるときがある。
自分が頑固なだけで迷惑を被るならば、まだ問題は少ないかもしれない。
しかし、自分が頑固でいることで周りにも迷惑をかけることがあると少しづつ自覚してきた。
2. 幻想を抱き、感情にのみ支配される
ずっと感じていたことだが、サッカーというスポーツは幻想を抱けてしまう世界だ。
華々しいトッププロサッカーの世界の情報が、インターネット全盛の今、24時間どこにいても勝手に入ってくる。
インターネットに限らず、周りのチームメイトの話題はいつも最新のサッカー事情だ。
便利な時代であることは間違いない。
ネットのおかげで日本と世界の距離は、ひと昔まえに比べてグッと近くなった。
けれど、同時に中途半端にトップ層の世界だけを見て、そして自分も同じサッカー界にいるという理由だけで、いつかこの日々の延長線上に華々しい世界があるんではないかと考える。
それは希望でもあり、幻想でもある。
希望にするか、幻想にするかは、本人のその時の生き方次第である。
僕が思うに、希望にできる人間は感情に流されるような人ではない。
感情をコントロールする、もしくは支配しようとする側にならなくては、幻想に溺れるただのサッカー少年であり続ける、とある時気づかされた。
3. 人生をRPGのように捉える
なぜここまで感情に支配されてしまう自分がいるのか。
感情に対して、感情をもってして対処しようとすると上手くいかない。
最近、感情をコントロールするのに役立つと実感していることが、書くこと、そして話すこと。
要するにアウトプットすることだが、日々の習慣にこれらを取り入れることで、感情を自分から切り離して捉えることが上手くなった。
メタ認知ともいうが、自分の場合、自分をまるでビデオゲームの主人公であるかのように捉えることで、視座を高くなる気がする。
ゲームなのだから、難しいステージが出てきても、逆にやりがいがあるじゃないかと。
苦しみは無くならないが心のどこかで余裕が持てるようになったと感じる。
昔は悩みがあること自体に悩んでいた。
人生は問題であふれている。
どうやって解決しようか思考錯誤することは、必要な悩みであり、良い悩みである。
一方、感情にいつまでも支配され、悩んでいることを言い訳に、現状を変える一歩を踏み出さないことは怠慢といえる。
感情は選択できる。
最近は本気でそう思えるようになってきた。
きっと一年後の自分からしたら、まだまだなのだろうけど。
最後に、僕が好きな南米サッカーのある監督のフレーズを引用したい。
南米では、サッカーにおいて、勝つことや得点を決めることを、emocionar(感動させる、ワクワクさせる)という動詞で表現することがある。
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