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数ヶ月前の失敗が、思いがけず自分と友達の役に立ってしまった話

書店に足を運ぶと、「失敗の活かし方」とか「失敗の受け止め方」とか、兎にも角にも、失敗をいかに肯定的に捉えるかというテーマの本が多く並んでいる。

おそらく、それほど現代に生きる私たちは多くの失敗を犯し、その失敗と対峙し悩みながら生きているということなのだと思う。

さて、今日はこじんまりと、数ヶ月前の私の失敗が、思いがけず今日、自分と自分の友達の役に立ってしまったお話。


1. 「失敗」をやらかしてしまった11月

話は遡り、昨年11月末〜12月頭。つまり約3ヶ月前。

まぁ別にそこまで大きな失敗という訳ではない。何も、試験を1つ落としてしまい再試を受けるハメになったというだけだ。

しかし、2月から始まる試験ラッシュに借金を抱えて突入しないように、時間のある11、12月の試験は確実に死守しておきたいところではあった。

その時の負の遺産のおかげで、周りの試験に受かった友達は皆、旅行に行ったり遊びに行ったりしている中、僕は未だ試験期間である。
この再試験は3月2日にやってくるからだ。


確かにあの時期は忙しかった。勉強しなかった自分も悪いが、試験に落ちたのにもそれなりの理由がある。

例えば、成人式の同窓会の幹事になってしまい、その仕事に追われていたこと。
例えば、部活の作品展が佳境にさしかかっていた時期感だったこと。
例えば、とあるイベントに登壇が決まっていて、直前までその資料作りに追われていたこと。

だが、そんなこともこんなことも、試験直前までなんとかなるだろうと甘い見立てを立てて、予定を詰め込んだ自分が結局悪い。

そしてそれらと試験勉強を両立させられなかった自分の努力不足でしかない。


2. 失敗から生まれた危機感が功を奏した12〜1月

確かに大した失敗ではないのだが、12月半ばに試験結果が発表され、見当通りに自分が落ちていて、わかっていたもののやはりそれなりに凹んだ。

それも、その試験では大した人数が落ちている訳ではなかったから、余計に自信をなくした。

と同時に、これはやばいかもしれないと思った。
「こんな少人数しか落ちない試験に落ちていたら、一歩間違えば留年が見えてくるかもしれない。」

留年しないためには、これからやってくる数多の試験を、できる限り取りこぼしなく救うことが最優先で最重要なのは言うまでもない。
それも、2年生のヤマである2月の試験ラッシュを乗り越えられるかどうかが鍵である。

この危機感が僕を変えた。


具体的に言えば、この危機感は僕の勉強スタイルを変えた。

今までは、直前追い込み型で、試験直前になってからいかに効率よく暗記をこなし、そして徹夜を駆使して、なんとか試験では合格点ギリギリをかっさらうという勉強スタイルだった。

しかし、これでは効率はよくとも、1ヶ月も続く長丁場の試験期間には体がもたないし、何より効率を重視する分リスクも高まる。確実に試験に受かるための勉強法ではないのだ。

そしてこのスタイルで失敗した僕は、コツコツ積み重ね型へと勉強スタイルを変えたのだ。

2月の試験のための勉強を12月から始めた。2ヶ月も前から勉強を始めるなど、やまさん史上前代未聞の出来事であった。

年末年始も時間があれば勉強したし、1月ももちろん周りよりはかなり勉強が進んでいたけれど、あぐらをかかずにコツコツと勉強を続けた。


そうするとなんと、これまたやまさん史上前代未聞なことが起きた。
試験直前に、もうやることが無くなってしまったのだ。

いや、厳密にいうならば、これ以上やらなくても合格するという境地に至ったのだ。
100点満点を目指す試験ならば、なんど繰り返しても完璧ということはないが、60点の合格点を超えるための勉強ならばもう十分だったのだ。

そうすると、嬉しいことに2月の試験に全て本試で受かったというだけではなく、ちょっとしたおまけも付いてきた。


2月初旬にあるテストと、退官される先生方の最終講義の日が被ってしまった。それも、試験の前に最終講義がある。

最終講義では、僕が個人的にとても慕っていたとても優秀な先生がお話されることが決まっていた。もちろん過去問通りの安易な試験ならば何も迷うことなく最終講義に出席した。

しかしその日の試験は、まさかの3時間超の試験時間で全編記述式という、なんとも恐ろしいものであった。

正直、直前まで、最終講義はさすがに厳しいかと思っていたが、試験前日にあの境地に至ったのだ。そう、もう合格点は超えたな、というあの境地に。

そして、気分晴れやかに、最終講義に出席し、その敬愛する先生の素晴らしい最終講義を拝聴することができた。

こうして、いつもの自分ならば絶対にありえなかったことが、やすやすと実現してしまったのだ。(試験もちゃんと通ってました。ホッ…)


3. 自分の失敗で、友達にまさかの感謝をされた2月

さて、とうとう話は今日に追いつき。僕が落としたあの試験は実は中間試験。そして、今日、その試験の期末分の発表があった。

僕はなんとか通っていた。一安心。

「中間と期末を合わせるとまぁまぁな人数落ちてるなぁ。」などと思いながら試験結果の張り出しを眺めていると、ラインが一件。友達からだった。


その友達は期末試験のみ落としてしまったのだ。

まぁその事実だけ見れば大したことはないのだが、これを落とさなければもう気兼ねなく春休みに入れたものが、ここで足止めを食らうと、さすがに本人的にはもう勉強する気も起きなかったのだろう。

そこで僕に、愚痴と相談のラインがきたわけだ。
大したことはない、雑談程度の内容だ。
そして、一通り雑談も済んで、最後に明日一緒に学校で勉強をする約束をした。


その直後に彼からぽろっと出た一言。

変な言い方だけど、やまさんがいて助かる形になりそうだ


なんだか嬉しかった。
もちろん僕だって早く春休みが欲しいし、再試の勉強も楽ではない。

でも、自分が試験に落ちたおかげで、自分の友達が試験に落ちた時の心の支えになれたのかもしれない。

再試に向かう僕の存在が、ほんの少しでも同じく再試を受けることになってしまった友達に、もう一踏ん張りする元気を与えられたのかもしれない。

そう。自分の失敗が、予期せぬところで、ほんの少し、人の役に立ったのだ。


4. まとめると、「気楽に生きよう」ということ

失敗も案外悪くないなと思えた、この3ヶ月の、どこにでもあるような日常の些細なストーリー。

失敗しても、それが自分を成長させてくれるし、後々自分にいい結果をもたらしてくれた。

自分の失敗が、予期せぬ形で他人の役に立つこともあった。

つまり、その時の失敗は将来的にどんな仕事をしてくれるかはわからないのだ。
時に、人を成長させることもあれば、逆にそれが人を退化させてしまうことだって、きっとある。


結局未来はわからない。
それならば、失敗を過度に恐れず、
真摯にかつ、気楽に失敗と向き合っていれば、
きっとそのうちなんとかなるし、なるようになるんだと思う。

そもそも、ある事象を失敗とか成功とかって分けるからおかしなことになるのかもしれない。結局は成功も失敗も、この世の1つの現象に名前をつけているに過ぎず、そんなものは僕らの主観でしかない。

それならば成功した時は喜び、失敗した時はちょっと落ち込み、でも大したことはないと開き直るぐらいが、きっと悩みがちな僕にはちょうどいい。


結局、終始自己啓発的な話になってしまった気もするけれど、でも何かテクニックや方法論があって、それを駆使しようという話ではないことはわかって欲しい。

なるべく等身大の言葉で日々を語りたいなと思う今日この頃。

人生いろいろだけど、案外どうなるかわからんし、成るように成るから、気楽に生きましょ。

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