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ミルクティーの香り

喫茶店。影の無い老人たちが明日のシナリオについて話をしている。

「昨日の置き手紙は、きょうについてなんと書いてあったかね?」
「ああ、電線に雨傘を吊るして陽射しを塗り替えなきゃならんね。」

だいたいそんな会話が一番端の壁から対角線上に伝わってくる。
いま三時間目の世界戦争が見えない空の上で動いているにも関わらず、座席の脇の蝋燭は氷のように固まった焔を燃やしている。時間の感覚を置き去りに。外套を脇に抱えて凍えている中折れ帽子の男が、眼鏡を拭いて電柱を見上げている姿が見えるが、こちらに気付く気配もなく倒れてしまった。
すでに決まっていたように、そういう日になる。

淹れたての湯気が神経に触れて、身体の重みと脳の浮遊感が交差する。

自分の質量が半分くらいだった時、出来ない事よりも知りたい事のほうが多かった。最初から全部知っているふりをするように生きるのは、なんて失礼なことだろうと気付いた。きっと、もっと良くなるはずだと思う。

見世の中央で瞑想に耽る女が、後ろ姿のモナリザだと分かったのは、眼を閉じている姿が描かれていなかった為だろう。女が最後に眼を開いた一瞬に、小さな涙を拭う手を伸ばしたい。そんなことを考えていた。

「その…陽射しの色はどうするかね。光で良いのか、それとも影を探すか。」
「どちらも見つからない場面に、気付く一日が自然の方向だろう。」

空気に触れる為、音が音を立てずに生まれる。

重なる日々が圧縮されて、溢れて押し出されていく。時間は待ってはくれないが、時間の後ろに待っている希望が消えたら人は生きる術を一つ失う。

「憎まれるのも、愛されるのも、死んでからでも遅くはない。」
「手遅れになる前に、生きてみなければ誰も描く事が出来ない人になってしまうだろうさ。」

慌てて倒れた男を助けに行ったあと、影の形の老人が最後に呟いていた。
ひとくちも口付けず、暖かい2杯目を忘れ、愛すると決めた午後だった。

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