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やがて詩幣へ

2024年5月12日朝、私は歯医者の待合室でkindle版の柄谷行人『マルクスその可能性の中心』講談社文庫を読んでいる。3月下旬のセールの時に買って少し読み長らく放置していたその電子書籍を、改めて読み進めている。

前日の11日朝に、ハートをよく描いているつじむらゆうじさんから「詩幣」の「詩を創るアーティストとして」「招聘したいのです」とメッセージをもらった。詩幣という字面を見てすぐに『マルクスその可能性の中心』を読まなければ、と私は思いついた。言語芸術と貨幣の関係について扱う書籍のなかで今読むべき、あるいは今読める書籍はこれだ、と確信したからだ。そして「詩幣」というタイトルを用意してきたつじむらゆうじさんの展示には躊躇するまでもなく参加せざるをえないとも確信した。だって乗らない手はないよ、こんなにおもしろそうな企画。それに8月には同じ浜松市内で詩歌と美術の差異を問う詩丼をやるのだから。
歯医者の診察を終えた4時間後に、私は詩幣における詩創造者(POETRY CREATOR)としての招聘を、プスプス by ZINGの長テーブルにて、受けた。

彼(引用者註:カール・マルクス)の新しさは、言語を価値としてみようとしたことにある。つまり、それは言語を「意味するもの」の示差的な関係の体系としてみることである、意味はアプリオリにあるのではなく差異づけの体系のなかで、いいかえれば語と語の間からあらわれると考えることである。

柄谷行人『マルクスその可能性の中心』講談社文庫

言語は差異づけの体系のなかにある。つまり「いぬ」と「ねこ」の差異はこれで、「けもの」と「さかな」の差異はこれで、という無数のこまかい差異を積み重ねた中心のない体系があるからこそ言語は他者と共有しうる。それと同じように商品と別の商品とのあいだに、はたまた、それらとは別の商品とのあいだに無数のこまかい差異の体系(これもまた中心がない)があるからこそ貨幣は商品と交換しうる。

ここで差異へ焦点があたる。プラトンの時代から経験論を経て、人々は「いぬ」という中心っぽいイデアと実際に存在するいぬaあるいはいぬbのちがいはなにか、ようは、いぬaが他ならぬいぬaであること、あるいはいぬaがいぬbが同じく「いぬ」であること、つまり差異がないこと、同一であるということはどういうことなのかについて考えをめぐらせてきた。

「人間の平等」は貨幣経済の産物なのだが、「貨幣」の謎は問われたことがない。それを問うことは、貨幣という「唯一者」(神)の根拠を問うことになるだろう。

柄谷行人『マルクスその可能性の中心』講談社文庫

その差異と同一についての思考は、人間そのものにもいきつく。ホモ・サピエンスには生物学的な亜種はもはや存在しない、みんな同じホモ・サピエンス・サピエンスだ。でもなぜ有色人種に対する差別があるか? そして明治4年の太政官布告「穢多非人ノ称ヲ廃シ身分職業共平民同様トス」が出されたにもかかわらず、なぜその後も部落差別があったのか? さらには、関東大震災のとき「15円50銭」と発音させなければ内地人と見分けのつかない朝鮮人がなぜ虐殺されたのか? そして、なぜペンギンは差別されないのか?

定理五十五 系 何びとも自分と同等でない者をその徳ゆえにねたみはしない。

スピノザ、畠中尚志訳『エチカ』岩波文庫

差異と同一についての思考はさらに範囲をひろげてゆく。言語芸術、とくに短歌や俳句は類想や盗作の問題がよく言われる。しかし結論はいつもたいてい同じでオリジナル(中心)には価値があり、周辺たる類想や盗作には価値がないとされる。しかし、オリジナル(中心)な紙幣というものが存在せず複製しか存在しない紙幣にはなぜか商品と交換できる価値があるとされる。それはなぜなのだろうか? などなど。

このようにこの詩幣というタイトルには受け取る人の数だけさまざまな切り口が開けてしまう。紙銭・フェティシズム・利息・ノミスマ・電子通貨・仮想通貨……発案者、おそるべし。

つじむらゆうじさん

詩幣は新紙幣発行日である7月3日(水)から7月6日(土)まで10:00から20:00のあいだ、浜松市鴨江アートセンター102号室・103号室で展示が行われる。七夕の前日までだ。7月3日と6日、つまり初日と最終日に私は顔を出すつもりだ。そのあいだにも夜に顔を出すかもしれない。そこに至るまで私はずっと差異とはなにか、同一であるということはどんなことか、を考えることだろう。そして、詩歌というかたちで詩幣にて表現するだろう。ちなみにこの詩幣には、他の詩創造者としてムラキングさんと吉田朝麻さんが招聘されている。

ところで、正式タイトルは詩幣なのか、それとも詩弊なのか?


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