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お帰りファインダー越しの景色

気づけばまた何回目かの春がきて、
カメラを握って写真を撮り始めてから5年が経った。


写真を通じて沢山の記憶や思いや言葉に気づいた。

正解に思い出せなくても、曖昧な過去も、
部分的になってしまった記憶も、全部全部
写真を通じれば嫌なことさえも蘇ってくる。

美しいものだけじゃなくていい、
ありのままのそのときを写せば見返したときに
まだあの当時の気持ちを感じるな とか逆にもう
思い出として心に留められているな とか
今の自分と過去のことをその都度向き合える気がする。


思い出して写真を見て辛いこともたくさんあった。

カメラを握れないことだって初めてのことだった。

それでも、写真が写すその景色だけじゃない物語を
私は知りたいし誰かに想像してもらえたらより嬉しい。
ファインダー越しにみたその瞬間が更に煌めく。


自分の好きなフォトグラファーの方が写真だけでなく、
言葉でも表現してくれるお陰で何度も救われた。
写真は言葉に表せないものを表せるひとつのツールだと
思っていたけど、言葉に表せる部分だってある。

高校の同級生から
「◯◯(私)の撮る写真実は凄く好きなんだよね」
「いつも素敵な写真撮ってくれてありがとう」
そう言われたときは自分が好きで撮ってたその瞬間が
誰かの記憶に残っているんだと、思い出を繋ぐ役割に
自分の写真がなっているんだと思うと嬉しかった。


写真を撮ることに全員が肯定的なわけじゃないこと、
私は知っている。否定的な人も身近にいた。

でも、その人とは違う景色をファインダー越しに見れる
高揚感はカメラを持つ者しか覗かない特別な瞬間。
特別が毎日あったら、より楽しい。


ここ最近は有難いことにいろんなご縁で写真を撮らせて
もらう機会が増えて、ワクワクが日々が続いてる。

それもモデルをしてくれた人のTwitterのリプで褒め殺しにされてたり私の世界観を良しとして見てくれる方が
いてくれることにニヤケが止まらなかった。

snsは偽った日常のマウントの取り合いだと今も思うし
正直興味のない人との繋がりなんていらない。
好きな写真、女の子、子供、ご飯。好きなものだけに
フォーカスしてどうしようもないことに劣等感を持たないという環境にしていけば、私は幸せだ。

これからも私とファインダー越しの毎日を、
誰かにとっての特別でいられるように撮り続ける。

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