尾本頼彦

世阿弥作品の研究家。京都大学観世会出身。定年後大阪大学文学研究科博士課程後期に入学し、…

尾本頼彦

世阿弥作品の研究家。京都大学観世会出身。定年後大阪大学文学研究科博士課程後期に入学し、博士(文学)取得。名張市在住和泉書院研究叢書412『世阿弥の能楽論ー「花の論」の展開』を2010年9月25日に上梓。関西の能楽研究会「六麓会」所属。

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名張と能楽第五回ー観阿弥生国論再検

 観阿弥は昭和49年までは、伊賀で生まれたと認められていました。それが香西精氏が昭和49年に発表した「観阿弥生国論再検」(『能楽研究』一号、昭和四十九年)で、観阿弥の生国は大和(奈良県桜井市山田)であるという説を出され、これが現在の定説です。  観阿弥の系図は古来、二種類あり、室町中期から江戸時代を通じて信じられてきた系図が『観世小次郎画像讃』です。観世小次郎信光は、世阿弥の弟、四郎の長男(音阿弥)の七男で大鼓打ちでした。「画像」は現存していませんが、「画像讃」は禅僧の景徐周

    • 名張と能楽 第四回 『上嶋家文書』の紹介 江戸時代の系図か昭和になって創作されたものか

       今回紹介する『上嶋家文書』とは、昭和32年11月以降に伊賀市在住で、郷土史家であった久保文雄(本名:文武)が学術雑誌に投稿した観阿弥・世阿弥に関する江戸時代の系図類を言います。  観阿弥の母親は楠正成の姉であり、観阿弥の奥さんは播磨の永富の娘で、名張の竹原大覚の養女となった人だという系図で、当初から能楽学界では認められず、日本史の研究家や小説家や梅原猛に評価されるという運命の系図でした。  つぎに、『上嶋家文書』のトピックスを9点あげます。 1.吉川英治の『私本太平記』(

      • 名張と能楽 第三回 観阿弥名張創座についての総括

         第一回と二回で、観阿弥が名張の小波田で創座したという説に対する香西精氏と表章氏の反対説の問題点について述べました。少し難しかったとの反響もあり、今回は、できるだけ分かり易い表現で総括します。  創座説の根拠の『申楽談儀』第22条「面のこと」の条文をあげますと、「此座の翁は弥勒打也。伊賀小波多にて座を建て初められし時、伊賀にて尋ね出だしたてまつし面也」です。「伊賀小波多にて座を建て初められし」の「伊賀小波多にて」という副詞句が、「座を建て初められし」という動詞を修飾すると解釈

        • 名張と能楽 名張と能楽 第二回 『申楽談儀』第22条の「観阿弥名張創座説」は正しい

           まず、昭和45年7月に発表された香西精氏の「伊賀小波多」という論考(『続世阿弥新考』)を簡単に紹介します。  香西氏は、『申楽談儀』第22条の「此座の翁は弥勒打也。伊賀小波多にて座を建て初められし時、伊賀にて尋ね出だしたてまつし面也」の「伊賀小波多にて」は後文の「伊賀にて」の注記が本文に紛れ込んだものとの推定に基づき、伊賀小波多は結崎座の翁面を求め得た場所に過ぎず、観阿弥は、はじめから興福寺(春日大社)を本所と仰ぎ、大和結崎の地を本拠として一座を建立したとの新説を提出されま

        名張と能楽第五回ー観阿弥生国論再検

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        • 上嶋家文書
          1本
        • 観阿弥名張創座説
          3本

        記事

          名張と能楽 第一回 『申楽談儀』第22条の観阿弥名張創座説をめぐって

          ①観阿弥創座説の変遷  能楽は観阿弥(父)と世阿弥親子によって、室町時代のはじめに完成された、謡と舞と囃子からなるミュージカルです。能楽は名張市の宝です。それは、『申楽談儀』第22条「面のこと」の「此座の翁は弥勒打也。伊賀小波多にて座を建て初められし時、伊賀にて尋ね出だしたてまつし面也」の、「伊賀小波多にて座を建て初められし」の「伊賀小波多にて」という副詞句は「座を建て初められし」という動詞を修飾すると解釈するのが普通であり、「伊賀小波多」は現在の名張市小波田(おばた)です

          名張と能楽 第一回 『申楽談儀』第22条の観阿弥名張創座説をめぐって