見出し画像

名張と能楽 名張と能楽 第二回 『申楽談儀』第22条の「観阿弥名張創座説」は正しい

 まず、昭和45年7月に発表された香西精氏の「伊賀小波多」という論考(『続世阿弥新考』)を簡単に紹介します。
 香西氏は、『申楽談儀』第22条の「此座の翁は弥勒打也。伊賀小波多にて座を建て初められし時、伊賀にて尋ね出だしたてまつし面也」の「伊賀小波多にて」は後文の「伊賀にて」の注記が本文に紛れ込んだものとの推定に基づき、伊賀小波多は結崎座の翁面を求め得た場所に過ぎず、観阿弥は、はじめから興福寺(春日大社)を本所と仰ぎ、大和結崎の地を本拠として一座を建立したとの新説を提出されました。昭和45年時点では、香西氏は、奈良にあった「結崎座」を創座したのは観阿弥であるという誤った説を信じておられたので、伊賀小波多でまず創座して、その後奈良に移動したという従来の定説をすっきりさせるために、22条の新解釈を提出されたものと思われます。そして、昭和49年時点の『世阿弥禅竹』で学界の権威の表章氏が前回紹介した理由で香西説を追認されたのです。
 ところが、その後表氏は、「大和猿楽の「長」の性格の変遷(上・中・下)」(『能楽研究』第2、3、4号、昭和51、52、53年)、「世阿弥以前」(『国文学 解釈と教材の研究』昭和55年1月)、「観阿弥清次と結崎座」(『文学』昭和58年7月)の一連の論考で、「結崎座」は鎌倉時代に、翁猿樂のために創立された座であり、観阿弥が創立した座ではないこと、観阿弥は「結崎座」の演能グループ(「観世の座」)の棟梁の為手であり、「観世の座」の創立者ではあるが、「結崎座」の「長(ヲサ)」ではなかったこと、などという新説を提起され、観阿弥が「結崎座」を創立したとの説を否定されるに至ったのです。しかしながら、表氏は先述の「観阿弥清次と結崎座」で、「そうした根拠のない説(結崎座観阿弥創座説)を、綿密な読みで知られる香西氏すら疑わず、(香西氏は「伊賀小波多」で観阿弥)伊賀創座説の誤りは指摘しながら結論で結崎座を創始したと明言している」と言っておられるのです。表氏が「観阿弥伊賀創座説」が誤りであると考えておられる理由は、表氏が『申楽談儀』第22条の「此座」を鎌倉時代に創座された「結崎座」と考えておられるからです。表氏は平成22年に逝去されましたが、『川西町史』(平成16年)の能楽編(表氏執筆)でも同じような理解に基づく解説をしておられるので晩年まで変わらなかったと思われます。
 しかしながら、『申楽談儀』第22条の「此座」は「結崎座」ではなく、「観世の座」であることは、筆者が「『申楽談儀』第22条の「此座」再検」(『東海能楽研究会10周年記念論文集』平成17年。『世阿弥の能楽論ー「花の論」の展開ー』平成22年所収)という論考で発表しています。骨子のみここに書きますと、『申楽談儀』第22条が普通注目されるのは、冒頭の「翁面」のくだりですが、実は、「結崎座」の演能グループである「観世の座」の能面について語られていて、全体で「此座」の能面という表現は4箇所で使用されています。「此座の翁」「此座に年寄りたる尉、竜右衞門」「此座の天神の面」「此座の、ちと年寄しく有女面、愛智打也」であり、その他、《翁》以外の演能の曲目が多数説明されています。したがって、『申楽談儀』第22条の後半3箇所の「此座」は、世阿弥が所属した、《鵜飼》《恋の重荷》《老松》《頼政》《天神の能》や女能などを演じる演能のための組織であり、これらの能面はこの演能のための組織の能面であることが理解されるのです。つまり、『申楽談儀』第22条の能面は、表氏説のいう「翁グループ」の「結崎座」ではなく、「演能グループ」の「観世の座」の能面についての記述であり、この条の「此座」は「観世の座」なのです。拙稿の抜き刷りや著書は表氏に贈呈していますが、反応はありませんでした。以上

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?