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名張と能楽第五回ー観阿弥生国論再検

 観阿弥は昭和49年までは、伊賀で生まれたと認められていました。それが香西精氏が昭和49年に発表した「観阿弥生国論再検」(『能楽研究』一号、昭和四十九年)で、観阿弥の生国は大和(奈良県桜井市山田)であるという説を出され、これが現在の定説です。
 観阿弥の系図は古来、二種類あり、室町中期から江戸時代を通じて信じられてきた系図が『観世小次郎画像讃』です。観世小次郎信光は、世阿弥の弟、四郎の長男(音阿弥)の七男で大鼓打ちでした。「画像」は現存していませんが、「画像讃」は禅僧の景徐周麟(けいじょしゅうりん)が作成し、その讃のみは残っています。この讃によれば、「観阿弥の父は伊賀国の武士・服部家の人」で、長男は春日明神の神託に父が従わず病死します。次男にも同じことが起こります。三男が「観阿弥」ですが、上の兄二人が病死後、父母が三男を連れて長谷寺に詣でたところ一人の僧に会い、観世という名を付けてもらい、ついに春日明神に詣で神託に従って猿楽者となった」というものです。この「画像讃」は室町中期から観世宗家にあり、江戸幕府にも観世家は伊賀出身であることを届けていました。
 もう一つの系図は、世阿弥が語った「『申楽談儀』23条」の記事です。『申楽談儀』の原本は世阿弥の息子元雅の家に伝わり、観世宗家を継承した音阿弥の家にはその抜き書きしかありませんでしたが、その抜き書きには23条の全文が記されていなかったのです。この23条の系図によると、観阿弥の曽祖父は、「伊賀の国服部の杉の木という人」で、その息子は「太田の中の養子」に出されます。この養子は「京の妾」との間に息子を儲けます。この息子は「山田に美濃大夫(山田猿楽)の養子」に出されます。そして、この息子が観阿弥の父ですが、三人の子を儲けます。長男は「宝生大夫」で、次男は生一(しょういち)、三男が観世(観阿弥)です。祖父と父は養子であった系図です。
 二つの系図は観阿弥の父や兄弟の記述が違っています。どちらも父の実子の系図であれば、どちらかが間違っていることになります。『申楽談儀』は明治時代になって活字化され世に知られました。『申楽談儀』は世阿弥の証言集ですから、『申楽談儀』の方が信頼性に優れるということになります。それを論稿として発表したのが、昭和49年の香西氏の論稿です。
 香西氏は、まず『観世小次郎画像讃』を、「伝統的に根深い猿楽賤視の風習のもとに養われた劣等感から観阿弥を伊賀侍の名門服部家の御曹司にまつり上げた系図買いの変態で、文学作品で信用置けない」と切って捨てます。
 しかし、猿楽師は観阿弥当時には一般には賤視されていましたが、室町将軍の義満に観阿弥が見出されてからは、将軍の側に仕える身分になっていました。世阿弥もそのお陰で、そんなに劣等感に悩まされていなかったと思われます。また、世阿弥の後に観世太夫となった音阿弥も将軍義教や義政に贔屓にされましたから、音阿弥の七男の観世小次郎が劣等感に悩んで、全く事実と違う系図づくりをしたとは断定できないと考えるべきではないでしょか。確かに現代の意識では『観世小次郎画像讃』の記事は、春日明神の神託が出てきて、真実でないように感じられます。しかし、世阿弥も『申楽談儀』のなかで、稲荷明神の神託で重病の患者のために十番の猿楽をしたところ平癒した話などを語っています。観阿弥・世阿弥の時代は神託がらみの話が普通に行われていた時代なのです。
 したがって、『観世小次郎画像讃』と『申楽談儀』23条」の記事が両方とも真実であると考えられないかということを将来の問題としてここに提起しておきたいのです。実は、「『申楽談儀』23条」の記事の祖父も父も養子の系図なので、観阿弥も養子であったと考えると、両系図の記事が合致するのです。しかし、それは「『申楽談儀』23条」の記事において、山田猿楽の養子になった父が「三人の子を儲く」という表現で三人の子供を表現していることで、直ちには承認されないのです。。「子を儲く」とは普通は実子に用いる表現だからです。しかし、「「儲けの君」という言葉は「皇位継承予定者(皇太子)」を表しますから、実子でない場合もあったはずです。この私の記事を読んで、「子を儲く」と書いたなかに養子も含まれていた文献の実例に気づいた人は是非連絡してほしいと思います。
 つぎに、香西氏は、「『談儀』23条で山田猿樂が大和の猿楽の話の中に見えていること。山田猿楽の後身が出合座であり、出合は大和香久山付近の地名であること。同じ大和竹田座や宝生座と出合座(山田猿楽)が古くから縁戚関係にあったことなどの諸条件を考慮すれば、山田猿楽ははじめから大和猿楽の古い一座であったと考えるのが至当であり、山田は大和の山田、それも出合の南、多武峰の西北麓、山田寺のあった地に拠ったものだろうという能勢博士の説に従うべきが当然であろう」と述べて、観阿弥の父が養子に入った「山田申楽」を大和の山田寺付属の猿楽座としたのです。
 この香西説は定説と認められるほどの威力がありますが、ここで是非とも提示しておきたい問題点があります。
「山田猿楽」」再検 尾本説
 世阿弥が「□□猿樂」という表現をしている例としては、「山田猿楽」以外には「大和猿楽」と「近江猿楽」のみです。その他、「□□猿樂」というつもりで、「丹波」とか「伊勢」とかだけで、「猿楽」を省略している例もあります。 『談儀』23条で「竹田の座、宝生の座、出合の座」と、 「山田猿楽」の直前に言っていますし、実際、「竹田猿樂、宝生猿樂、出合猿樂」という、「□□座」という意味で「□□猿樂」を使用することを、世阿弥は『申楽談儀』以外の著書でもしていません。したがって、「山田猿楽」というのは、「山田」という地域の猿樂と考えるのが、そして大和猿楽の話しの中に出てくる「山田猿楽」は大和猿楽以外の猿樂と考えるのが、『談儀』23条の率直な読み方ではないかという点です。国名ではありませんから、次ぎに大きい単位の「郡名」で考えます。『増補 大日本地名辞書 第一巻』の索引によると、「山田郡」は日本全国に四箇所ありますが、近畿地方には、伊賀国の山田郡しかありません。実は、廣田慶造『観世発祥地考』(「観世」 S.8年12月)という古い論稿がありまして、現在は完全に否定されています。この廣田説は、「 『三重県神社誌』に載っている、山田郡(現阿山郡山田村)の植木神社(山田神社)で、文永二年(1265)六月の祭礼に「猿樂田楽歌舞等終日相勤め」と、猿樂が行われたことを紹介し、「山田村の植木神社、山田神社に奉仕していた猿楽が山田猿楽であるとしても少しも差し支えない」と結論しています。
 「『申楽談儀』23条」の大和猿楽の話の中に、山田猿楽は出てきますが、「出合の座は、先は山田猿楽也。伊賀の国、服部の、杉の木という人の子息」と、出合の座の古い時代のことに言及する中であり、山田猿楽から突然、伊賀の国の杉の木という人に言及されていることは、山田猿楽が伊賀の国の猿楽であったからであるとも考えられる文章です。
 以上、長くなりました。定説というのは、新しい発見により、変わるものです。「観阿弥生国論」も大和説で不動の地位を占めていますが、観阿弥の曽祖父が「伊賀の国服部の杉の木という人」であったことは、世阿弥の証言であり、間違いがありませんので、伊賀説の可能性について放棄するのは将来のためによくないと思い、今回の稿をあえて執筆しました。

                                    
               

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