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【エッセイ】認識ってなんや

認識というわかるけどなんかよ―分からん事について考えてみた。長め?(疲れて途中で終わってるけど)


認識は何なのか。何気なく「これは固い」「あれは眩しい」「うるさい」「辛い」「気持ち悪い」「いい匂い」等と思うことがあるが、これは確かに認識である。しかし同時に感覚であるし、本能であるともいうのかもしれない。

 認識は、考えや感覚などとも捉えられるが、いずれにしろ物質ではないのではないか。一般に普及している「科学」は基本的には物質の分析による事実の探求である。認知科学等の領域もあるが、認識として捉えられるものをデータ収集し分析している代物といえる。結局、認識が何なのかは分からない。とりあえず、認識は物質じゃないということにしよう。
 認識は非物質でありながら、物質へ影響する。人類は、脳という特定部位を大きく発達させた生物であり、二足歩行を敢行した生物であり、ではその二足歩行はどうして行われたのか。脳という機能の賜物だといえるだろう。脳は物質である。その物質が例えば「四足ではなく二足で歩く」という「認識」を持った時、そしてそれを物質界へ反映させた時、物質が変化を起こすための時間は必要となるが、非物質的な「認識」は物質的なものへの影響を果たす。認識とは、何か大きなデータベース的なものかもしれない。それにアクセスする鍵であり権利が脳という物質であり、脳機能が種類に富むほどその持つ権利が大きい。


ではアクセス先のデータベースはどのようにできているのか。ここで知的生命体や宇宙の話と邂逅する。宇宙は生物的な変化をたどっているとすれば、宇宙は肉体であり、細胞であり、物質的な集合体である。また、知的生命体は言わずもがな物質の集合体である。知的生命体は「生物」であるため、生物として存在しうる環境や舞台が整えば存在する。脳が権利であるということは、非物質的なものを感知しうる(主観的にしか存在しない)能力は遍く権利キーであり、それは宇宙で、星で、銀河で発生しうるものであれば、それらから得られたフォードバックはデータとなり得る。データベースは情報の集合体であり、集合体という点は物質的な集合体と共通する。となると、物質的な集合体の今のところの最小単位である原子や元素は、これらも集合体であると考えられるが何であるかは分かっておらず、つまるところ原子や元素は非物質的なもののデータベースであるのではないか。となれば、認識という非物質的なものは物質的なものの構成要素となるが、物質に直接的な影響をもたらすものが物質でしかありえない以上、非物質によつ物質の構成は不可能である。


では、非物質はなんなのか、原子は何なのか、そもそも認識はアクセスの結果なのかという疑問に戻る。認識がアクセス権を行使した故の結果物でないとすると、脳という特異物質の機能の一つであるという可能性を検討できる。脳に該当する器官は動物には存在するが、植物には存在するのか。植物と動物はなぜ分けられているのか。植物は単なる動物の食糧ではない。時に牙を剥くし、時に助けてくれる。害をなしたり、助けることが可能ということは植物と動物には親和性があると考えられる。細胞を促進するにしろ破壊するにしろ互いに影響を及ぼし合うことは違いない。つまり、植物も動物も親和性を持っており、生物は互いに影響し合うという舞台を推測することができる。動物にあって植物にないというのは考えづらいため、動物が植物の認識を認識できないだけではないか。ということは認識には幅と呼べたり波長と呼べたりする領域的な何かがあるのではないか。となると認識はいよいよ脳という特異物質の機能であるとするのは薄弱さがある。植物にも認識があるとすれば、それは少なくとも人間が観測している植物を構成する物質にはないか、発見できていない物質があるか、そもそも携えている物質なのかという疑問を呈することができる。また、やはり植物には認識と呼べるものはないのかもしれないし、先に言及したように人間が観測できる領域にないだけなのかもしれない。それは蝙蝠やイルカが超音波を認識できるように植物は動物が認識できない何かを認識していることで認識を成り立たせているのかもしれない。と仮定すれば、認識はやはり物質から認識という領域にアクセスしている、物質を通して認識という領域を世界を作り出している、そしてその世界は物質的にしか存在しえないものかもしれないし、逆に独立した世界として存在し、認識がのぞいているのはその一端でしかないかもしれない。


そうであるならば、生物として、つまり生まれて死ぬ有機体としての存在には遍く認識領域へ干渉する機能が備わっているのだろうか。地球は生まれたし寿命も推測されていることから恐らく死ぬ。実際に他の星では死んでいると思われる現象を確認しているため地球も死ぬだろう。であれば地球は生物なのか。「生きている物」ではあるが、生物なのか。自転しているし、公転という世渡りもしているし、虫とか人とか微生物とか植物とかを内部に持っているし、熱々のマントルとかの液体があれば、核とかの物質的中心体も持っている。生物にしか見えないが、星に認識はあるのか。植物と同じで人間が解明した構成要素からは認識を生み出すことができると考えられるものは存在しない。しかし生物であると考えるならば、どこかに認識領域を観測する何か、生み出す何かがあるはずである。


しかし、ここで水を差すなら、人間はこの認識によって生物でないものを作り出している。それは機械であり、プラスチックであり、電気などである。これらはどう考えても生物ではない。生物は、もっと言えば生物が持っている認識は生物でないもの、認識を持たないものを生み出すことができる。もちろん機械は機能しなくなる、つまり死ぬし、プラスチックも経年劣化によって機能しなくなり死ぬ。電気はエネルギーであり、動いているものだが、動いているのは原子であり、原子も生物とは言えないが、とにかく発生させなくしたり、しなくなったりすることはあるため死ぬ。ということは星という生物に見える、つまり生まれるし死ぬものでも認識を持たないものである可能性はある。となれば星は何かによって作られたと考えるのが自然である。


宇宙は、構成要素の一つである星は死ぬし、宇宙自体も広がっているといわれているが、そもそも全容が良くわかっていない。しかし、宇宙を生物的に見れば、成長しているし、構成要素の死亡と再生を繰り返しているし、なんかよくわかんないけど自律的な広がりっぽいしということで生物に見えなくもない。しかし、星を細胞と同じように考えたとすれば、細胞は認識を持たないのかという疑問が生じる。結局は脳も細胞という単位の構成物でしかないし、なんなら細胞は原子の構成要素でしかない。原子に認識があるかどうかはいったん置いておいて、細胞には認識はあるのか。細胞は生物であるのか。生物であれば認識もできる可能性はある。というか細胞は自分で死んでいくという様子を見せる時もあれば、古いものを淘汰し新しく生まれ変わるという姿勢も取る。生物的な進化過程と非常に似ていると考えられるが、それでは原子はどうなのか。原子はそもそも何でできているのかよくわからん。構成要素が不明といえるが、これは宇宙と似ている。宇宙は何か黒いが、この黒さは光という存在故なのかどうなのかはわからないが、なぜ広がっているのかがよくわかっていないことと同じで構成要素が不明であるといえる。構成要素不明ではあるが、物質として存在している。生物であるかもわからないし、そもそも何なのかすらよくわからないが、原子は陽子とか中性子とか電子とかで形を作り意味を成している。これは集合体という点を想起させ、宇宙は星とか銀河とかなんか黒いところとかの集合体である。ということは、生まれて死ぬという生物に共通すると考えていた点は実は集合体がそうではなくなるというだけなのではないか。もしそうであれば、原子は死ぬし、宇宙も死ぬ。電子が離れれば形を保てなくなるし、星が散ればそれまでの宇宙ではなくなる。脳も細胞が死ねば死ぬし、それは例えば神経細胞がその形を保てなくなることとも言える。認知症等の認識に異常がでる現象は、集合体の解散が根本にあると考えれば、確かにとまぁ納得はできる。実際ニューロンの通り道ができなくなったり、神経細胞が死滅する、つまり集合体が形を保たなくなることで脳は認識を成りたたせにくくなる。


であるならば、やはり認識とはいったい何なのか。脳機能という点に立ち返ってみる。認識は脳が司っているとすると、その認識の度合いは脳のどのような変化によって変わってくるのか。よく脳のしわが増えると頭が良くなっている証拠などと言われるが、これは脳回という隆起部分と脳溝という陥凹部分を表したもので、大きな大脳を持つ動物にはみられるが、マウスやラットなどの小さめの大脳を持つ動物にはないことが多いらしい。ということは別に脳のしわが認識を生み出しているとは言えないが、少なくとも認識における強弱に影響しているとはいえるかもしれない。強弱に影響しているのが脳にみられる形であるならば、その根本である認識に影響しているのはやはり脳であるのだろう。動物は脳を皆が持っているのだろうか。微生物とかは持っていないやつも多そうだ。例えばゾウリムシは単細胞生物であり、文字通り一つの細胞からできている生物の事である。細胞は細胞説に基づけば生物の構造と機能を司る最小単位であり、その最小単位一つでできている生物がゾウリムシである。脳は器官であり、器官は細胞から構成されており、多数の細胞が集まっている状態が脳機能を司る。これらを踏まえると、細胞一つの生物であるゾウリムシには、脳のような高次な機能は存在せず、しかしその高次機能を生み出すに至る基本単位がすべてである。しかし、細胞といってもそれ自体もさらなる構成要素を持っている。先ほど挙げたゾウリムシは、大核、小核、触法、収縮胞、細胞口、繊毛等によって構成されており、これらは一つの細胞であるとみなされている。ということは、細胞は「生物」として存在するために必要な何かを詰め込んだ段ボール的な感じなんだろう。


しかし、生物として確立できても認識が備わっているかは分からない。生物の構成要素というか特性として一般的に言われているものは、細胞が基本単位で、代謝によって生じるエネルギーが生命活動に繋がり、生殖によって増殖し、恒常性を持ち、刺激の受容とそれに伴う反応を示すし、遺伝情報を基に進化するようなものだ。ゾウリムシはなんやかんやで生物なので、食物を取り込むし、老廃物を排出するし、運動もしている。食物の取り込みについて焦点を当ててみると、ではいったい何を食しているのかは置いておくにしろ、どうして「食べる」ことができているのだろうか。食べるためには、それが食べられるものか食べられないものかの判断や、それができないにしろ何かしらを「認めて」取り込む必要があるだろう。しかしそれを確認することはできない。散々お世話になっているゾウリムシの食事も、どのように食事を行うか、何を食べるのか(ちなみに細菌を食べるらしい)等については研究がおこなわれているが、どうして細菌だとわかるのか、なぜ細菌を選んでいるのかなどについては記載を見つけられない(リサーチが下手なだけの可能性もあるが)。


食べること以外でも、生殖は雄雌が存在しないと成り立たない行為なので互いを「認識」する必要があるようにも思えるが、どうやって認識しているのかは分からないし、分かったとしても特徴を見分けているとか音で分かるとかそういった行為依存の分析であって、ではその「見る」ことによる処理はどこでどうやって行っていて、そもそも視認が確認できるなら「認識」は存在するのではないかと思える。生物がなぜ食べることができるのか、生殖することができるのか。ゾウリムシのような単細胞生物がそれを可能としているのだから、それ以上の細胞を持っている生物ができない謂れはないし、であるならばどうやってその行為を行うことができているのかについて、認識という非物質的で主観的な何かを持ち出すと急にそれが何なのか分からなくなるのはいったいどういうことなのか。

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