見出し画像

日本の原風景にある価値

朝目を覚まし、窓を開ける。そこには静けさと霜に覆われた畑、深緑の低山。朝日を浴びて光と影が織りなすコントラスト。ここはどこか有名な温泉地でもなく、行楽地でもない。ただ昔から日本のどこにでもある田舎の集落。それなのになぜか心に沁みる。このような小さな集落は高齢化、過疎化によってどんどんと失われていく。集落で生まれた子どもたちは、不便さから村を出て、都心部ではたらき生活をする。私自身もそうだった。おらこんなむらいやだ〜、おらこんなむらいやだぁ〜、東京へ出るだぁ〜。時代は昭和から平成、令和へと変わった。様々な技術が進歩して、人々の生き方、働き方は多様になった現代、このようなに日本の何気ない原風景の価値が見直されているのではと思う。

何もない、かといって何もないわけでもない

集落のおじいちゃんやおばあちゃんは、「よく、こんなところにまたなんで来たの〜」っていう。な〜んにもないのに。都心に住んでる人は、(一部)疲れている人が多いのか、モノに囲まれすぎているのか、選択肢が多すぎるからなのか、このなにもないことに惹かれる。電波が入らない。人気がない(代わりに動物がいる)、音がない。光がない。ちょっと不便だけど、きのシンプルさがいい。ちょっと疲れた都心の人の心や体を癒すのだろう。コロナ禍では閑散としていたけれど、人気の観光地では人でごった返す。意外に心穏やかに過ごせる場所って少ない。一方、ほんとうにここには何もないのかというと、そんなことはない。集落のお母さんが作った、有機のそれはそれは美味しい野菜や果物。

光(街灯)がないので夜には満天の星空が。静けさの中には川のせせらぎが。

失われていた五感が鋭敏になる。パソコンを前に仕事をしていると、私たちは電気信号を通じて音を聞き取り、映像を見る。ここでは人が本来持っているモノを使うのだ。それってやっぱり幸せのひとつなんじゃないかな。

自分だけの秘密の場所

OMOSHIROはそんな小さな小さな奥房総の養老渓谷のさらに奥にある小さな小さな集落にある。ポツンと忘れ去られたようにあった古民家を地元の大工さん、地元の材木屋さん、ご近所さんに手伝ってもらって作った。どこの馬の骨だかわからない私たちを、皆んなが支えてくれて、紹介してくれたり、協力してくれたり、時には差し入れを持ってきてくれたり。そんなあたたかさがあるんだ。と正直びっくりした。自分たちの感じた、小さな集落の自然と共に呼吸するその心地よさを、他の誰かにもお裾分けできたら。そんな思いで宿をつくった。
小さな小さな畑もご近所さんに借りてつくらせていただき(OMOSHIRO FARM)、小さな野菜でも、採れたての美味しさといったら他に代わるものがない。(野生動物はよく知っていて、収穫のいいタイミングでお猿さんに食べられることもあるけど、それはそれで・・・)。近くには養老川へ降りる小道もあり、今の時期はピリッとした空気の中で川のせせらぎを聴きながら散歩するのもスッキリする。
色々な世界があって、色々な美しさがある。でも、ここの美しさ、人とのつながり方は格別だと思う。

千葉奥房総養老渓谷の一棟貸宿OMOSHIRO
https://omoshiro.space

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?