ゲンロンカフェの備忘録その2

今回の関心事

テーマに「軍事オタク」を掲げ、同世代かつ似たような興味関心で今に至っている登壇者2名。私なんぞより余程コアなミリオタ、それもメディアの最前線で活躍している同世代の言論人・知識人とあって、それはそれは楽しみに参加したのだった。

概要(書き足し予定)

  • 軍事オタクの過去と今

  • 主要なライター

  • ロシア・ウクライナ戦争の特徴

などを論じつつ、実際は拡散的な話題が中心だった。それ自体ゲンロンカフェのトークセッションらしいっちゃらしいわけだが。

所感

いまの私にとって興味深い議論は、近年の「歴史の記述」と「軍事オタクの関心」が相似形をなしていることだった。
つまり、歴史の文脈においては司馬遼太郎的「大きな物語」が後景に退いてかたや「PT的粗製濫造の歴史」、かたや「実証主義」が隆盛となり細分化している。
ミリオタの界隈でも知識マウントの取り合いというネガティブな面もありつつ、大きな話しで盛り上がっていた時代から、自分の専門分野の「沼」にはまり「掘り下げる」方向へ、うっかり大きな話しをしようものなら細部の事実誤認に総ツッコミが入るのが現状となっている…
総じて「大きな物語」という、ある程度共有できていた前提が、必ずしも所与のものではなくなっているのである。
(まさにいずれも辻田真佐憲氏の守備範囲でもあるわけだが。)

あまりにも個人的な興味関心に寄りすぎている気がして、最後質問をしようか迷った挙げ句に手を上げなかったのは、まだ思索が深まっていないためでもあると言い訳にしておこう。。。
・歴史とミリタリー、相似形ではないか。
・人文学にしろ社会科学、自然科学にしろ、どこも似たような構図ではないだろうか。
・どうしてこんな趨勢になっているのか、契機はなんだったのか。
・プレイヤーそれぞれが専門化、細分化した上で、大きな物語に知を再統合できないものか。
・そうならない、大きな物語が書かれないのは何故か、もはや求められていないからなのか。
こんなことを聞けたら良かったと思う。

ちょうど1年前の、このnoteにも備忘を残したトークセッションの内容ともオーバーラップする、有意義で考えさせられる回だった。まだまだ私には、これを論じていくだけの材料が足らないと思ったのだった。
PS.辻田真佐憲さんサインありがとうございましたm(_ _)m

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