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「その着せ替え人形は恋をする」に学ぶ、完璧な漫画と不合理な現実。

久しぶりにヘッドハンティングの打診をされた。

以前はそれなりにあったのだが、マネジメント業務が多くなってからは久しかったので、少し驚いた。エージェントになぜ声をかけてくれたのかと伺ったところ、依頼先が数年前に私が投稿した論文を読み興味を持ってくれたことがきっかけだと教えてくれた。

よくもまぁ、あんなインパクトファクターの低い雑誌の論文を読んだなと感心してしまった。とりあえずWeb面談をすることにしたところ、なんと業界トップの外資系会社からのお誘いだった。これにはかなり驚いた。


色々と興味深い話が聞けたのだが、特に面白かったのが「いまの会社からどれくらい給料頂いてるかは存じ上げませんが、とりあえず倍は出ると思いますよ」と言われたシーンだ。

弊社、舐められてるなぁ〜と大笑いしてしまったが、スクリーン越しのエージェントの顔はマジだった。さすが業界トップは格が違う。
金に目が眩むとはこういうことかと、「言葉」ではなく「心」で理解できた瞬間であった。

わかったよプロシュートの兄ィ!!



しかし、最終的には断ってしまった。

その理由は、依頼された仕事の内容にある。先方は、先の論文に関連する製品を開発したい、そのプロジェクトリーダーをお願いしたい、と打診してきたのだった。要は過去にやった仕事の焼き直しだ。


10年ほどかけて完結した仕事を他社でもやる。正直何の面白味も感じなかった。
給料が倍になることよりも、業界トップ企業で働くことよりも、終わった仕事をもう一度やることの虚無感が優ってしまった。

断りを伝えた後、エージェントに「お誘い頂いて有難う御座います!また何かありましたら宜しくお願いします!(ヘラヘラ)」と言い、web面談は終わった。きっと次はないだろう。
今となっては惜い気もするが、まぁしょうがないよなとも思う。心動かす完璧なオファーなど、この世にはないのかもしれない。

ただ完璧な漫画はある。『その着せ替え人形ビスク・ドールは恋をする』がそうであるように。


完璧な第1話

アニメ化が大成功した『その着せ替え人形は恋をする』。コミックスの累計発行部数は600万部を突破と、アニメ放送前からほぼ倍まで部数が伸びている。まさに破竹の勢いである。

実家が雛人形屋で、幼い頃から雛人形職人を目指す高校1年生・五条新菜わかなは、男子ながら雛人形が好きという趣味のためか、小学校からずっと友達がおらず、ひたすら雛人形と向き合う毎日だった。1学期のある日、学校で雛人形用の衣装を作っていたところを同級生の喜多川海夢まりんに見られる。かねてよりコスプレ願望を抱きながらも、自分では衣装を上手に作ることができなかった海夢は、新菜の裁縫に感銘を受けコスプレ衣装の制作を依頼する。

『その着せ替え人形は恋をする』Wikipediaより引用


働きだしてからアニメを観る機会がすっかりなくなってしまったし、もう観る気もないので、私は本作が話題になっていることすら知らなかった。
しかし、『GS美神』や『絶対可憐チルドレン』でお馴染みの椎名高志先生が呟いた本作の感想が気になりすぎたので、とりあえず一冊だけでも読んでみるかと手にとったところ、いつの間にか全巻読破する羽目になってしまった。

呟きの内容が『GS美神』の横島なんよ:『椎名高志』Twitterより引用



テーマの一つが「コスプレ」であったり、ヒロインの属性がギャルであったりするため、そういう類のエロ漫画なのかなと、正直あまり期待していなかったのだが、第1話を読んだ段階で「あっ、この1話目は完璧だ」とあまりの出来の良さに唸ってしまった。完全な不意打ちだ。


本作は雛人形の顔を作る頭師かしらしに憧れる主人公が、コスプレ好きなギャルのヒロインと出会うことで、物語が大きく動いていく、いわゆるボーイミーツガールに分類される物語である。

1話目では、対照的な二人がコスプレを軸に交わっていく様子が描かれる、いわばド定番な導入であった。しかし見せ方が圧倒的に上手い。


まずは2人の対比から入る。友達もおらず控えめな主人公は、明るく物事をはっきりと言う同じクラスのヒロインを見て、住む世界の違いを感じていた。彼女を羨み、自分を蔑むのだ。

違う世界の人:『その着せ替え人形は恋をする』1巻より引用 福田晋一 著


この展開下では、陽キャなギャルであるヒロインの第一印象は決して良くはない。読者目線からみれば、エロ要員とすら捉えれかねない危うい存在だ。

しかし、ギャルという属性からヒロインをパターン認識していた主人公や読者は、ここから怒涛の勢いで、彼女がパターンにあてはまらない魅力的な人間であることに気づいていく。

控えめな主人公にも別け隔てなく接し、核心をつく知性を持ち、感情豊かでコスプレという意外な趣味を持つも、不器用で服を作れないことに悩む彼女は、自分と同じ世界で生きるひとりの人間だと知り、そして初めて他人の力になりたいと主人公は思う。世界が広がるのである。

ちょっとエッチな漫画かなと予想した私達を鮮やかに裏切り、美しくピュアな物語が幕を開けたのだ。

完璧な開幕:『その着せ替え人形は恋をする』1巻より引用 福田晋一 著


ここまでの展開が実にスムーズで感心してしまった。主役の二人が誠実で嫌味がないところも良いし、ラブコメであることを忘れさせないよう、ラストにしっかりオチをつけているところも好印象だ。

1話目から期待感のある出来の良いラブコメだなぁと、心躍りながらページをめくっていたのだが、しかしこの後、私は別の意味で認識を改めることになる。



涙の第9話

『その着せ替え人形は恋をする』はラブコメだと思っていた。実際100人の読者に聞けば、100人がラブコメだと答えるだろう。
しかし読み進めるにつれて、どうしても違う見方をしている自分がいた。ひょっとしてこれは、お仕事漫画なのでは、と。


決定的だったのが9話だ。以下に第9話までのあらすじを示す。

・徐々に親密になる主人公とヒロイン
・初の衣装作りにモチベーションは最高潮
・しかしコスプレイベントが2週間後と知り焦る(実は勘違い
・さらに家族の入院やテスト等が重なってしまい追い込まれる
・締切までに衣装が間に合いそうにない
絶望

ここに至るまで、主人公には全く非がない。
ヒロインが口にした直近のコスプレイベントの日時を衣装作りの締切と早合点してしまってはいるが、直前の話の流れから勘違いをしても仕方がないように思える。

そう、彼に非はない。
にもかかわらず、彼は初めての衣装作りを最悪な環境下で行わねばならなかった。時間もない、経験もない、誰のサポートもない。ヒロインが楽しみにしていたイベントには、もう間に合いそうもない。

職人として中途半端な自分に嫌気が差し、目に涙を浮かべながら、歯を食いしばりながら、それでも投げ出すことだけはできず、彼は暗がりの中で衣装を縫うのだ。

分かるか…? 分かるか!? この見開きの意味が!!苦しみが!!!:『その着せ替え人形は恋をする』2巻より引用 福田晋一 著


まっとうな人生を送ってきた読者の方々なら、思いあたる出来事があるはずだ。

誰もサポートしてくれなかったあの時、終わりの見えないタスク、とっくに過ぎた定時、出張先で起きた予想もしないトラブル、休日に届く上司からのメール、ドイツの安宿のロビーで深夜1時くらいから訳の分からない説教を1時間半もくらったあの日のことを!(血涙


理不尽な環境の中、それでも私達は歯を食いしばりながら頑張ってきた。もう諦めていいのに、帰っていいのに。そんな日のことを、私は思い出していた。

こうなってしまうともうダメだ。主人公への感情移入が止まらない。

完全なギャグパートにもかかわらず、出来上がった衣装を見に纏ったヒロインと主人公の会話シーンですら、私の目には涙が溜まっていた。

いや、なんで私はこの見開きで泣いてんの?:『その着せ替え人形は恋をする』2巻より引用 福田晋一 著



分業が必要だった

この9話以外にも、本作はなぜか仕事に通じる様な場面が多い。領域が異なる知識が本業に役立つシーンや、衣装作りに慣れ始めた主人公が調査を怠ってしまうシーンなど、衣装作りなどしたことがない私が、至るところで「分かるぅ……」と共感し悶絶していた。

そんなシーンを見るたびに、最適解がなんなのかを考え始めるようになった。特に先の9話のシーンは、ツラかったあの日への想起がエグかったので、過去の自分を振り返りつつ、最適解へと思考が巡り始めていた。


直近で読んだ『HIGH OUTPUT MANAGEMENT』では、全ての仕事に共通することとして、全体的な形を決める中心的なタスクの把握と、これを中心とした計画の立案から取り掛かるべきだと提案している。
本著ではトースターとゆで卵,コーヒーの朝食セットを量産するレストランの業務を例に、生産におけるアウトプットの基本を説明している。メタファーが上手い本は理解が捗り、大変有り難い。

まずやらなければならないことは、取りかかる作業の全体的な形を決める中心的なステップをはっきり突き止めることである。それを制約的リミティングステップ”と呼ぼう。この一事例の場合、問題は単純である。朝食の構成要素のうち、準備に最も時間のかかるのはどれかである。コーヒーはキッチンですでに湯気を立てており、トーストは1分ぐらいしかかからないから、答えは明らかに卵である。そこで、卵をゆでるのに必要な時間を中心に全体の仕事を計画しなければならない。(中略)これを生産の専門用語で総処理スループット時間という。

『HIGH OUTPUT MANAGEMENT』より引用 アンドリュー・S・グローブ 著



現代において、マルチタスクを強いられないことは無い。PCにはいつも複数のプログラムが並行して起動し、場所を跨いだ仕事を兼任するなんてことも珍しくないだろう。そして、キャパオーバーになってしまう状況もまた、マルチタスクを強いられている時に多いと思う。9話の主人公と同じように。

本著の朝食セットを量産する事例では、一番時間のかかるゆで卵作成の工程を制約的ステップとし、トースターの空き状況を加味しながら、トーストの作成とコーヒーを注ぐ作業を並行するという総処理時間を想定している。
制約的ステップと総処理時間が分かれば、どんな仕事であろうと大きな失敗をすることはない。

全体像を把握することで、対処できる状況は割と多い


マルチタスクを強いられている時ほど、制約的ステップを中心とした総処理時間の想定を行うことが大事だと私は思う。全体像を把握するだけでも割と冷静になれるし、建設的な考え方が浮かんだりするものだ。

仮に見積もった総処理時間が処理出来ない場合には、タスク処理に関わる人を増やすか、タスクの一部を外注するか、優先順位から諦めるタスクを選定するか、といった選択を行えば良い。とにかく制約的ステップの把握と総処理時間の想定を行わないことには、建設的な対処方法の策定に時間を使えず、大体あわあわして終わる。


『その着せ替え人形は恋をする』の主人公も、まずは制約的ステップを定めるべきだった。衣装作成が大事ならば、入院した家族の世話や家業は親族の助けを借りるべきだったし、テスト対策はクラスメイトに頼っても良かった。衣装作成だって、一部は既製品に頼るといった選択肢があったかもしれない。

しかし彼は全てを自分で抱え込み、そして絶望に至ってしまった。彼のお爺さんが作中で言っていたように、人に頼ること、つまりは分業することの勇気を持つことが、彼や過去の私には必要だったのかもしれない。

頼るのが一番難しい:『その着せ替え人形は恋をする』7巻より引用 福田晋一 著


・・・・・・


・・・


本当か?




分業は必要じゃなかった

なんとなく綺麗な結論にたどり着いた気もするが、書きながら「なんか違うな」という気持ちが抑えきれなかった。

「マルチタスクの最適解は分業」というのは、教科書的には正しいように思える。しかし、いつも仕事が嫌になる瞬間を思い返せば、そのおおよそが分業が機能していない時のように思えてならないのだ。


先の書籍と並行して読んでいた『NETFLIXの最強人事戦略』。成功した会社の事例紹介、というだけでお腹いっぱいになってしまうので、普段は手が伸びない書籍ではあるのだが、パラパラと読み進める中で、これだけは共感できてしまう主張を見つけてしまい、結局読了することとなった。

本書では、NETFLIXが経営不振の危機を乗り越えられた理由を、優秀な人材の割合が高かったから、と説明していた。便利なノウハウを求めて購入した人事系社員がブチギレそうな結論だが、多くの場合はNETFLIXのように出来ていないこともまた真実だ。

このとき私たちは最初の重要な気づきを得る。それは、最高の結果を出せる人だけが会社に残っていたということだ。したがって経営陣が従業員のためにできる最善のことは、一緒に働く同僚にハイパフォーマーだけを採用することだと学んだ。(中略)優秀な同僚と、明確な目的意識、達成すべき成果の周知徹底ーこの組み合わせが、パワフルな組織の秘訣である。

『NETFLIXの最強人事戦略』より引用 パティ・マッコード 著


先程の朝食セットの事例で考えてみて欲しい。

仮にトーストを作成するタスクを他人に任せることになったとしよう。後進育成のためにとか、自分が他の業務も兼任することになったとか、他部署で使い物にならなかった人材だったからお前頼むとか、どんな理由も考えられる。

マルチタスクを自分以外に分業する時、そこには大いなるリスクを内包することとなる。すなわち、無能の人が混ざり込むリスクだ。


あなたが分業をお願いせざるを得ない人が無能だった時、ゆでられた卵が完璧であったとしても、コーヒーを注ぐタイミングが抜群であったとしても、無能の人がトーストを焦がした瞬間、全てが水疱に帰す結果となる。

制約的ステップを理解せず、総処理時間など考えたこともない人が、綿密なあなたの計画を無駄にするのだ。

チームというものは、いかによくまとまっていても、またいかによく指示を受けていても、それを構成する個人個人の力と同じぐらいにしか遂行しないし、業績も上げられない。いいかえれば、われわれがこれまで考察してきたことは、チームの構成員たちが絶えず最善を尽くそうと努力しない限り、全てが無益になる。

『HIGH OUTPUT MANAGEMENT』より引用 アンドリュー・S・グローブ 著
1人の無能が全てをぶち壊す



『その着せ替え人形は恋をする』の7巻にて、文化祭のミスコン用衣装を作ることになった主人公は、クラスメイトにミスコン以外の文化祭の準備を任せることで、衣装作りに集中できる環境を得ることが出来た。

初めは分業を覚えた主人公エライ、と思っていたのだが、よくよく考えると衣装作りという制約的ステップに不安要素を排除してエライ、の方がしっくりくるなと思った。抜群の容姿とスタイルを誇るヒロインではあるが、手先が壊滅的に不器用な彼女は衣装作りを行うべきではない。

なんでもかんでも、分業することのリスクを私たちは知るべきなのだろう。極論をいえば、全部自分でやってしまった方が良い時はあるのだから。

適材適所:『その着せ替え人形は恋をする』7巻より引用 福田晋一 著



まとめ

先日、同僚とチームビルディングについて話をする機会があった。
彼のチームには新たに3人のメンバーが加わることになったのだが、そのうち1人が名前を言ってはいけないあの人状態の曲者であった。

同僚は上司に、「チームメンバーが増えたんだから、これで進捗スピードがあがるな!」と言われ、それを真に受けて悩んでいた。

冷静に考えれば、チームにヴォルデモート卿が増えたからといって、仕事が進むわけがない。いやもう断じて、断じてそんなわけがないのだが、そんなことを言われることもあるのが、NETFLIXではない一般的な会社なのだ。


私たちに出来ることは、リスクを内包しつつもなるべく被害が最小限になるようなタスク管理をするのみだ。そして自分自身が無能の人にならないよう、せめて歯を食いしばりながら涙を浮かべて仕事をした経験を、この先のなにかに生かせるよう内省したいと思う。


・・・転職したほうが良かったかなぁ。


それでは。

(今までの記事はコチラ:マガジン『大衆象を評す』

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