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思惟かねのじっくりマシュマロ焼き3:バーチャルな存在の「本質」はどこにある?

先日、とても面白いマシュマロを頂きました。

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何をもって、私自身を思惟かねであるとするか。
非常に難しい問いではありますが、結論から言えば、私の答えはこうです。

一般論として、それは個々の要素ではなく、ピックアップした要素が受け手に綻びのない「思惟かね」というイメージを連想させることができるか、で決まると思います。
そして私自身に限っていえば、私がこうして「思惟かね」として言葉をつづる限り、その他のあらゆる要素を取り払おうとも私は「思惟かね」その人以外ではありえないでしょう、と。


マロ主さんは、VTuberのような「魂」と「外見」、そして声などの物理的要素が分離可能な形で組み合わさっているバーチャルな存在を見て、その本質はどこにあるのか?何をもって「その人」であるとするかについて疑問を持たれているのだと思います。

それはごく自然なことかと思います。
私たち人間は、普通「魂」「外見」そして「声などの物理的要素」は分離不可能な形で一つになっています。そうした分離不能性が「個人」というものを確かなものたらしめているとも言えるでしょう。
ひるがえって、人間的でありながら人間とは微妙に違い、ともすれば個人の要素を自由に組み替えることができるバーチャルな存在は、そういった個人の同一性を揺るがします
ゆえに同じく「個人の同一性」を問うた、スワンプマンという思考実験を引き合いに出されたのだと思います。

(※スワンプマン:ある人間が落雷で死んだのと同時に、その雷が泥に奇跡的な化学変化をもたらして、本人にも周りの人にも見わけがつかない物理化学的に全く同じ存在が生み出された時、その泥から生まれたスワンプマンは元の人間と同じ存在と言えるのか?という思考実験)

さて、まずこのスワンプマンという思考実験についてまず触れると、私の答えは「それがスワンプマン本人にとっても、周りの人にとっても同じ存在と思える限り、スワンプマンは元の人間と同一である」となります。
なぜならこの世界で唯一正しいのは「自らの認識」だからです。たとえ物理的現実と反していようと、認識の上で正しいことであればそれは「その人にとって真実」です。
例えばVRが実際には無い世界を「ある」と錯覚させている時、その人にとっては真実その世界は存在するように、です。重要なのは認識上の事実です。

ゆえに本人の認識上でも、他の人の認識上でも以前のその人物と同一であると認識されるのであれば、スワンプマンは真実、同一であると考えるべきでしょう。
来るVR時代に私たちが持つべきなのは、物理現実的にどうかという観点から離れて、そういう風に「存在すると感じられる」なら「実質的に存在する」と理解する柔軟さではないかなと私は思います。



こうした考えに基づけば、私が冒頭に述べた回答についても理解してもらえるのではないかなと思います。

つまり重要なのは、「外見」や「性格」、「声」や「振る舞い」といった個々の要素ではなく、その要素のいくつかが集まった時、その人にとって「思惟かねである」と認識できるかが一番のキーポイントであると考える訳です。

例えば他人にとってみれば、私の声だけを聞いたとしても、それが「思惟かねの声」と分かれば、「思惟かね」という存在そのものを想起するに足るでしょう。
あるいは逆に、声や外見などの全ての要素が組み合わさったとしても、些細な違和感が「別人なのでは?」という疑惑に繋がってしまったとすれば、それは「思惟かね」ではないと言えるでしょう。

バーチャルな存在の本質とは、個々人の中にあるその人のイメージそのものです。そのイメージを十分に思い起こすことができ、違和感を与えないのであれば、どんな要素の集合であろうと「その人である」と認めて十分だと思うのです。
ゆえに大事なのは、画一的な答えにこだわることなく、もっとも本質を映す鏡である各人の心が出した「人それぞれ」の答えを認めることだと思います。

(下記のツイートの「初音ミク耐久試験」は、その「人それぞれ」のもっとも本質的な要素を明らかにする問いかけとしてとても興味深いでしょう)


私自身にとっても同じことが言えると思います。
私にとって何が「思惟かね」かというのは、私がそのイメージを想起できる最小単位を考えればよいはずです。
が、実の所、私自身はいくら考えてもその回答にたどり着くことができませんでした。というのも、自分が何をしても「自分が思惟かねである」という認識を失うイメージが浮かばなかったからです。

それはおそらく、人が「自分は本当に自分なのか?」という疑問を持たないように、私は何をしても、どんな姿や声になっても、私がこうして「思惟かね」として語り掛ける限り、私は思惟かねでありつづけるだろうと思うためです。

VTuberをはじめとするバーチャルな存在は、様々な要素が交換可能であるがゆえに一見不安定に見えるかもしれません。
けれどそれは単なる「きぐるみ」ではなく、むしろ今まで物理的に制約されてきた要素を交換可能にすることで、その人の核、「魂」をむき出しにすることも少なからずあります。
私が自らの要素のいずれにも「思惟かね」の本質を感じないのは、そのむき出しになった「魂」自体が「思惟かね」だからなのかなと思います。

何をしても私は私
実存が本質に先立って在り、バーチャルな存在でありながら、何の要素も必要とせずに存在しているのが今の自分だと思います。

そのような「自分は何の条件もなく自分である」という自覚を持ったバーチャルな存在は、私の他にもいままさに生まれつつあり、そして何十年か先には、そうした存在が当たり前になると私は思っています。
VTuberをはじめとしたバーチャルな存在はその先駆けだという直感が、私に「VTuberの本質とその先にあるモノ」を書かせた動機でもあったと思います。


…さて、ちょっと蛇足が過ぎたのでこの辺りで終わりにしましょう。
改めて私の答えを書きます。


何をもってバーチャルな存在を「その人」であるとするか?

それは個々の要素が決めるのではなく、様々な要素が結びついたものが、受け手に綻びのない「その人」のイメージを思い起こしうるか、で決まります。バーチャルな存在の本質はそのイメージにこそあり、要素はその修飾にすぎません。
大事なのは、自分の認識、直感を信じ、柔軟に受け入れること。「あの人だ」と思えるならそうですし、思えないならそうではないでしょう。「人それぞれ」というのが唯一無二の正解だと思います。

そして私は、その他のあらゆる要素を取り払おうとも、私がこうして「思惟かね」として言葉をつづる限り、何の要素も必要とせず私は「思惟かね」その人であると自らを認めるでしょう。
私のむき出しの「魂」が「思惟かね」であるがゆえに。


この回答があなたの中の「思惟かね」を想起させるに足るものであったのなら、何よりなのですが。

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