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有益な情報はどこから知ればいいの?: 「知識を得る」ことの歴史を振り返る

さて、今回の記事のきっかけは、はれのそらさんが投稿したこの記事。
Noteのアクティブユーザー数は、8ヶ月の間に倍増、実に1000万人のユーザーが新たに参加したそうです。が、その一方で、日記のようなコンテンツが増え、専門性の高い情報は埋もれやすくなっているという分析です。

この記事について、はれのそらさんと少しお話したのですが、その中でも一つ大きな気付きがあったのがこのコメントです。

今の時代、インターネットやSNSの発展により、私たちはどんどん沢山の情報に、簡単にアクセスできるようになっています。しかしそうした変化の一方で、本当に大事で有益な情報に限っては、ゲットする難易度が思ったよりも下がっていないんじゃないかな?とふと思いました。

今回はこうした「有益な情報にたどり着くには?」という視点から、人類の歴史をかるーく振り返りつつ、今の時代の「情報の探し方」はどうあるべきなのか?を私なりに考えてみたいと思います。


「情報の探し方」の歴史

「情報を共有する」というのは、ヒトの最大の強みといえます。これがあってこそ、動物としては弱点の多い人間は地球の生態系の頂点に君臨することが出来ました。
では、その「情報の共有」という視点から人類史を振り返ってみると、いくつかのエポックメイキングな発明が大きな貢献を果たしていたことが分かります。順番に並べてみると、

・言葉の発明
・文字(本)の発明
・活版印刷の発明
・インターネットと検索エンジンの発明

だいたいこんなところでしょうか。
それぞれの段階で一体どんなことが起き、それによって「情報の探し方」はどう変わっていったのでしょうか?人類の歴史を順番に見ていきましょう。


最初の最初。「言葉」の発明です。
ヒトは言葉を発明したことで、「情報」を他の個体と共有し、のみならずそれを後世にまで継承していくことができるようになりました。情報の共有と蓄積が可能になり、「技術」が生まれたのです。そして社会が発展し職業の専門化が進むにつれて、やがて情報を集積し、ある分野に通じた「専門家」が生まれます。
この時点での情報の探し方は「専門家に聞く」一択です。つまり情報を探すには、誰がその分野の専門家なのかを知っていることが必須でした。大抵の場合、それを調べること自体もまたハードルが高いわけで、「情報を知るために情報がそもそも必要」という矛盾のため、大半の人は頭を抱えるしかなかったのですね。

さて次です。「専門家」の情報、つまり人間の記憶には、しかし限界があります。人は死に、知識は風化するからです。そこで、文字で情報を残すという方法が生まれました。これが第2のブレイクスルーです。これにより、人類は情報を明確な形で長期間残すことができるようになりました。例えば日本最古の歴史書「古事記」は1300年に渡って受け継がれています。全3巻、神代と33代の天皇にまつわる膨大な情報を、このような長きに渡って情報を残すことは、口伝だけでは不可能だったでしょう。

画像2そして、もう一つ重要なのはこの「本」という形をとることで、ある分野について色々な人が持つ情報を整頓された形で、ひとまとめにして得られるようになったことです。情報の保存とともに、情報の集積と濃縮がより高度に可能になったのです。

しかし、この本というものは当時とてつもなく貴重です。何しろ本は一品物です。複製するにしても、何百枚もの紙(紙は当時貴重品です)に書かれた文字や絵を手書きで書き写す(写本)という、非常な労力を費やさなければなりません。ちなみに話は逸れますが、お坊さんのする「写経」というのはまさにこの写本そのもの。本来写経は、宗教を広める上で沢山の数が必要なお経(経典)を手書きでコピーするという極めて実務的な作業でした。写経という行為が、現代のように修行や信心といった側面を持つのはもっと後世のことです。

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そういうわけなので、本という形で知識が共有されても、実際にそれを手にとって読める人はごく限られます。そしてその限られた人とは大抵が「専門家」なわけです。たしかに本に情報が蓄積されたことで、専門家の持つ情報量と正確性は大きく向上したでしょう。が、専門家だけが情報を持っているという構図自体に大きな変化はなかったわけですね。情報の探し方も、「専門家に聞く」以外に「貴重な専門書を持っている人を探す」というオプションが増えた以外は以前とほぼ変わりません。相変わらず大半の人は、欲しい情報にたどり着くことは難しかったのです。

これに一石を投じ、大きな革命を起こしたのが第3の発明、活版印刷でした。時代で言えば15世紀頃。私たちが今当たり前に享受している「本を印刷して手軽に増やす」ということは、ことここに至って初めて可能になったのです。

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ちなみに活版印刷の発展は、キリスト教の教典である聖書の印刷と切っても切れない関係にあります。お経と同じで、沢山の人に読ませる必要のある教典をいかに大量に用意するかというのは、常に宗教にとっての悩みの一つであったわけですね。そしてそれまでは限られた人=宗教関係者しか読むことの出来なかった聖書を、大量印刷により誰もが読めるようになったことは、いわゆる宗教改革を支えた要因の一つだったといいます。考えてみれば、かつては宗教関係者が情報も、そのソースである聖書も独占していたので、彼らが都合の良い適当な教義(もっとも有名なのがかの「免罪符」ですね)を吹き込んでも、民衆は「そうなのか」と納得するしかなかったわけです。ところが原典である聖書を皆が持ったことで、情報ソースのチェックが可能になり「それはおかしい」と声を上げることがついに可能になったのですね。

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このように、活版印刷によって「専門家」とセットだった情報集積ツールの専門書は、ついに誰もが手の届くものとなったのです。これにより専門的な情報すらも、本を媒体に広く拡散することが可能になりました。そして重要なのが、事実上ここで専門家と専門書が切り離されたという点です。専門書をさえ手に入れば、専門家は必ずしも必要ではなくなったのです。極論、どんな人でも専門書を読むことで専門家になれる時代が到来したとも言えます。
ここに至り、ようやく「情報の探し方」に大きな変化が訪れます。これまでのようになにはともあれ「専門家」を探す必要があった時代が終わり、よりリーズナブルである本を探すという選択肢が第一候補になったのです。これに出版業の商業化と資本主義の隆盛が拍車をかけました。一昔前の「知りたいことがあったら、とりあえず本屋か図書館に行ってみる」という行動パターンはこうして成立したのですね。

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インターネットと検索エンジンの登場:最大のエポック

さて、いよいよ現代にして本丸。最後にして最大の変化が、インターネットと検索エンジンの登場です。勿論これにもWEBの黎明期から検索エンジンの発明、ホスティングサービス(ニフティなどの個人HPの受け皿)の登場、総合掲示板の発展、ブログの一般化、そしてSNSの発展…などなど、様々な歴史がありますが、あまりに長くなりすぎるので、今回は2020年現在の状況を、インターネットなき「本の時代」である1980年代以前と比べて何が変わったのか?を考えてみましょう。

前章で説明したとおり、活版印刷による本の一般化は、専門家が独占していた専門知識を彼らから切り離して、情報が単独で本を媒体に流布されることを可能としました。その結果、人は「詳しい人」を探すのではなく、本屋や図書館で本を探すことが一般的な情報の探し方となりました。

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しかし当然ながら本はタダではないので、手当り次第全てを読むのは難しいです。また背表紙を見て目当ての本を探すのにも手間がかかり、中身がお目当てのものかどうかは一度手にとってみないと分かりません。なにより本屋に置いてある本というのはごくごく限られた一部でしかありません。図書館も程度の差こそあれ同様です。つまり、情報の検索性が悪く、アクセスできる情報の範囲も限られていたのが大きな問題だったわけです。また、どういう本に必要な情報が書いてあるかを知らないと情報を探せない、つまり「情報を探すために情報が必要」という状況は、程度の差こそあれまだまだ残っていました。

それを一転させたのが、インターネットと検索エンジンです。ありとあらゆる情報を包括したインターネットと、それを横断的に検索できる強力な検索エンジンの組み合わせは、目的の情報を探す上で人類史上最強のツールでしょう。なにより、それを誰もが無料のインフラとして使えるのです。全世界のありとあらゆる情報に、断片的な検索ワードさえ並べればたどり着く事ができる。そしてそれを無料で、いくらでも試行錯誤することができる

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たとえば、「ジェットエンジン」について調べたくても、ジェットエンジンという言葉を知らないと専門書にたどり着くのは難しいです。しかしネット検索だと「飛行機 飛ぶ 機械」などのようなキーワードで検索するだけで「ジェットエンジン」というキーワードと情報そのものにたどり着くことができるわけです。検索順位を下にたどって無数のページを調べることも可能ですし、たとえダメでも、他のキーワードを試すことも自在です。

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これが、インターネット以前の「情報を探す」ことの課題…時間とコストの制約から「探せる情報量に限界がある」という問題、「情報を探すために情報(キーワード)が必要」という矛盾を全て解決したのです。
今や私たちは、ともすれば考えることよりも先に「とりあえず検索してみる」という行動を選ぶほどにこのシステムにどっぷりと浸かっています。それがどれほど革命的なことなのか、こうして昔日の状況を振り返ると、今一度実感できるのではないでしょうか。

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こうして人類はネット検索という叡智の火を得て、世は並べて事もなし…となればよかったのですが。残念ながらそうはいきません。皆さんご存知の通り、昨今は特にこのネット検索というシステムの負の側面がいよいよ無視できなくなってきています。


ネット検索の光と影

さあ、いよいよ本題に入ります。

ネットによる情報伝達の負の側面…と聞くと、皆さんもいくつか思い当たる節があるのではないでしょうか? 例えば根拠のないデマ情報の拡散や、キュレーションサイトやアフィリエイトブログなどによる低品質な情報の氾濫。皆さんも、明確に否定された何年も前のデマがいまだにまことしやかにネットに書かれていたり、あるいは中身のない情報を並べてひたすら購入を促すアフィリエイトブログが乱立していたりと、嘆かわしい状況を目にしたことはあるのではないでしょうか?

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他方では、誰もがスマホから情報が発信できるようになったことで、ネット上に存在する不要な情報自体が爆発的に増えているという現実があります。例えばTwitterで特定の話題について調べても、中身のないツイートばかりがヒットして知りたい情報が見つからないということも多いのではないでしょうか。
このように、ネット上には全てが存在するが、全てがあるがゆえに良くないもの、不要なものも大量に紛れ込んでしまうのです。どの情報が正しく、どの情報を見るべきなのか? 私たちはもはや、情報を探すことそのものよりも検索した後の選別にこそ困難を抱えているのです。

今一度過去の歴史を振り返れば、私たちにとって情報を探す上で最大の問題は、インターネットの登場までは一貫して「情報を探し出すことが極めて大変である」ということでした。しかしネット検索の登場により、情報を探し出すことは一転して極めて容易になりました。それが一層ネットへの情報集積を後押ししたのですが、その結果として生じたのが、上記のような「情報を探すことよりも、情報を選別することの方が著しく大変である」という現在の問題なのです。

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この問題の根底にあるのは、インターネットが可能にした「情報がただ情報として流布する」ことなのではないかな、と思います。
例えば、文字がない時代は情報は専門家と不可分に結びついていました。文字が生まれ情報が本となっても、本の情報はやはり専門家と深く結びついていました。活版印刷が専門家を抜きに情報が流通することを可能にしても、情報は本という実体を持ちその本には必ず著者が存在し、やはり情報と専門家との結びつきは残っていました。広く発信される情報には、必ず「専門家」というタグと、それに伴う信頼が着いて回っていたのです。
しかしインターネットにより、ついに情報と専門家の結びつきは完全に断ち切られました。そして専門家のみならず、誰もが情報を発信する立場となり、発信者の分からないAnonymousな情報がただ無名の情報としてネットの中を巡ったのです。僅かな有益な情報と、大多数の「薄い」あるいは「誤った」情報として。


本題:現代における「いい情報の探し方」とは?

前置きがとんでもなく長くなりましたが、ここからが今回のメイントピックです。
こうした玉石混交の状況の中でも、私たちはネットの中で情報を探し出していかなければなりません。では、私たちにとっての良い「情報の探し方」とはどういう方法なのでしょうか。私たちは無数の情報の海の中から、どうすれば有益な情報を選り分けることができるのか?

ここは、私の座右の銘である「温故知新」にならって、名案を生み出すために古きをたずねてみようかと思います。インターネット以前の時代、人はどうやって信頼できる情報を得ていたのでしたっけ…?
はい、ここでようやく長々と前フリとしてお話しした人類の情報検索の歴史が意味を持ってくるわけですね。

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既に述べたように、情報共有という観点で見ると、人類史には言葉の発明本の発明活版印刷の発明ネット検索の発明という4つのステップがあったといえます。では現代というネット検索の時代から一つさかのぼってみましょう。この今の時代こそ、有益な情報を得るためにまず本を探してみるのはどうでしょうか?
ネットの問題とは、発信者が専門家ともしれぬ誰かであり、情報が玉石混交で整理されていないことです。ならば一昔前に戻って本を買えばいい。幸い、本の検索自体はネットで簡単になっていますし、書籍というのはやはり一定の質が担保されているので、有益な情報を選別するフィルタとしてはとても有用に思えます。

が、これにはいくつか難点があります。一つが、ネットの持つ情報の鮮度というメリットが失われること。世の中が変化するスピードは日を追うごとに早くなっており、本を一冊書き終えるまでの時間は「新鮮な情報」を「時代遅れの情報」に変えるのに十分な時間です。
もう一つが、小粒な情報を発信できないということ。本という形にまとめるには、ある程度の情報量が…数百円~数千円で買ってもらえるのに十分な情報量が必要です。つまり数ツイート、コラム1個に収まるようなフレッシュな情報を発信する…というネットならではの情報発信は、本ではどうやっても真似することが出来ないのです。
また、書籍といえどもいわゆる「トンデモ本」のように、信頼に値しない情報であっても時には少なからぬ数が売れてしまうという残念な現実もあります。出版不況が叫ばれる今の時代、情報の信頼度よりも話題性、センセーショナルさが重視されてしまいがちなのも逆風です。

しかし、逆に言えば上記のような問題点さえ解決すれば、専門家が書く本というのは有益な情報を得るために間違いなく効果的です。そこで私が勧めたいのが、専門家のマガジンを購読することです。例えば有料メールマガジンや、そう、まさにこのnoteで発信されている数々の有料記事のような、です。
マガジンをネット配信するという形式は、小粒ながらもタイムリーな話題の提供を可能にします。そしてそれを海の物とも山の物ともつかぬ誰かではなく、信頼できる専門家が直接執筆するという構図。本による有益な情報収集という古き良きスタイルが現代にふさわしくアレンジされた、これはとても合理的な形態ではないでしょうか?

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さて、一つの答えが見えた所で、ここで試みにもう一つ時をさかのぼってみましょう。活版印刷なき時代、つまり専門家と専門書がセットだった時代です。この時、有益な情報を得る上での最適解は「専門家に教えを請う」ことでした。時代は移ろえど、この有効性はいまだに変わっていないことは、事あるごとにメディアが専門家にコメントを求めることをみれば一目瞭然です。
そして、かつては敷居が高かった専門家に話を聞くという行為ですが、実はいまやこのハードルはかなり下がっています。そう、SNSのおかげです。いまや専門家から時事ニュースについてタイムリーなコメントを受け取ったり、場合によっては直接質問をぶつけるというのは、さほど難しいことでもなくなっているのです。当然、メルマガなどに比べればレスポンスが得られる可能性は大きく下がりますが、現実味は十分ありますから。


現代の情報収集は原点回帰にあり

というわけで、この今の時代、有益な(正しい)情報をもっとも得やすい方法は、Webマガジンを購読したり、それを執筆する専門家をSNSでフォローする、場合によっては直接凸するということなのではないかな、というのが私の結論です。
考えてみるとこれは情報検索の歴史を、インターネットと検索エンジンが起こした革命以前へさかのぼる原点回帰の流れであるともいえます。これは情報爆発により真偽入り混じった、「薄い」情報ばかりになってしまったネット社会においてこそ、専門家という信頼性の高い情報源の重要度がかえって高まりつつあるのだ、とも解釈できるでしょう。

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一方で、注意すべき点もあります。マガジンにしろ、SNSにしろ、そもそもその専門家自身が信用に足るのか?という問題です。
こうした情報収集は、全て専門家の信頼性に立脚しています。ゆえにネット社会において非常に手間のかかる情報選別の必要がないのですが、当の専門家が信用ならないとなれば根本がゆらぎます。ゆえにこうした情報収集のスタイルでは、情報自体の精度以前にその専門家がどれだけ信頼できるかの見極めこそがもっとも重要になるわけです。

もちろん、専門家だって過ちはありますので、正確を期すなら同分野の専門家を複数フォローして情報をクロスチェックするべきです。こうした「専門家リスト」を作ることこそが、現代ではもっとも精度と手間のバランスのいい情報収集となるのかなと思います。
また一方で、時には最先端の情報を掴むには、怪しげな情報の海へ潜ることも必要になります。専門家が欲しい情報をほしいタイミングでくれるとは限りませんからね。しかしその時にこそ、信頼できる「専門家リスト」が情報のフィルタとして意味を持つでしょう。かくして長々と語った本稿は、冒頭のはれのそらさんの「人とサイトの両方にアンテナを張るのが大切」というコメントに収束するわけです。


情報発信をする立場の人が注意すべきこと

最後に少し視点を変えて、こうした時流の中で、当の「専門家」側の人はいったいどのように振る舞い、どのような点に注意すべきなのかを考えてみましょう。
ここで注釈すると、「専門家」といっても本物の専門家であるとは限りません。その分野に通じていると周りから見られていて、何らかの情報を発信している人間は、周りの人から見ればすべからく「専門家」となりえます。大は大学教授のような本物の専門家から、小は私のような木っ端物書きの端くれまで、です。つまり誰もが「専門家」としてこの当事者になり得るといえます。

もっとも、これについては前章で既に答えが出ています。もっとも重要なのは間違いなく「信頼」です。
ありきたりと言うなかれ。前章で述べたように、おびただしい情報が行き交う現代のネットでこそ、個人の信頼度というのはとても大きな意味を持ちます。寄る辺なきネットの海で、情報を選別する上でもっとも有効なのがそれだからです。実際、不確かで相反する2つの情報が同時に出てきた時、おそらく大半の人は自分が信頼している人の情報を真だと思うのではないでしょうか?
それを「信者」という呼び方で批判してしまうのは簡単ですが、現実問題、あらゆる情報に対しクロスチェックまでして真偽を明らかにできるほど、人間は暇ではありません。無意識下の選択ではありますが、情報過多の現代において「信じる」ということはむしろ最適な行動の一つなのです。

だからこそ、情報を発信する人、「専門家」であらんとするなら、あなたは信頼を得るように努力し、勝ち得た信頼に応えるように努めなければなりません。多くの場合、もっとも重要なのは有益な情報を発信し続けることでしょう。意味のない情報をいくら発信しても、人はそれに集まりませんし、信頼も得られませんからね。
しかしそれと同じくらい大事なのが、誤った情報発信をした時にどうするか、です。現実的に、情報を発信する上で誤りを犯さないのは不可能です。だから誤りに気づいたら、それを認めて、きちんと訂正すべきです。なにしろ「情報源」が明らかに誤ったことを言ったきりでは、信頼も何もあったものではありませんから。面子や自己顕示欲以上に、周囲からの信頼というものを重んじる真摯さもまた重要となるでしょう。

かつては「匿名性」というケープが誰も彼もを「名無しさん」として、信頼や責任感を足蹴にしたネットの時代もありました。しかし今や時代は移り変わり、ネットだからこそ信頼を積み重ねることを必要とする時代に、私たちは至りつつあるのではないでしょうか?


そうして信頼を積み重ね、「専門家」となった先に何が待っているのか?
それは情報が自分から集まってくるという不思議な現象です。

ネットでは本当に有益な情報は、膨大な情報の渦の中で「薄く」拡散しています。あたかも宇宙の虚空に漂う星間物質のようにです。ゆえに私たちは必死に「濃い」情報、有益な情報の在り処を探し求めます。その結果、「濃い」情報を持った人たちが同じく「濃い」情報を求めて一箇所に集まってくる情報が情報を呼ぶのです。この場合、信頼はまさに引力そのものです。自分が信頼を勝ち得、「濃い」情報の核となることは、それだけ「濃い」情報、数多の有益な情報を引きつけ、その中心にいられるということに他ならないのです。上手く行けばその集積が実を結び、星となって輝くこともあるやもしれません。

信頼を重ね、有益な情報を発信し続けることは誰にでもできることではありません。が、あるいはそれこそが現代のネット社会で最強の情報収集の手段…なのかもしれません。


あなたもまた、真摯で信頼される「専門家」の一人であらんことを。
思惟かねがお送りしました。

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