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批判というのは難しいよねという話:「良い批判」とその受け入れ方

先日投稿した、2020年のVTuber界隈を予測したnoteの記事がとても好評を頂いていて、喜びのあまり転がり回っている思惟かねです。
ありがたいことに読者の方から沢山の反応を頂きましたが、中でも特に嬉しかったのが、私がVTuber界隈の美点だと思っている「肯定の文化」について多く同意をいただけたことです。

インターネットではその匿名性ゆえに、批判的・攻撃的な投稿が目立ちやすい中、VTuber界隈は例外的ともいえる「優しい」クラスタだと感じます。否定の言葉よりも肯定の言葉を。黙視ではなく積極的な称賛を。それは発祥からの歴史的な経緯と、VTuberの「人間らしさ」が生んだ文化であり、人間の根源的な部分を癒やしてくれる優しさであると私は考えていますが、それを同じく美点と見ている方が少なからずいるというのは、本当に幸せで、VTuberに限らず広く広まって欲しい文化であると思います。


ただ私はひねくれ者なので、批判的思考をもついつい働かせています。何事にも裏と表があるように、もし、万が一肯定を美徳とする文化が先鋭化して行き過ぎてしまった場合、そこに負の側面はないのだろうか?と。
懸念の一つが「批判」というものに対する受け止め方についてです。他人に対する肯定はとても素晴らしいことです。一方で無条件の肯定を強いる空気感とは、つまるところ批判の封殺でもあります。それは自由や暖かさとは対極に位置するものでしょう。ただし、決して今のVTuber界隈がそうであるとは思っていないことは、念のため強調しておきます。
ただし、もし仮に将来、そうした傾向があると私たちが感じたならば、私たちはそれに自覚的になり、自らを省みるべきでしょう。良いところも悪いところもわきまえた上で、良い文化を良い文化のまま健全に継承していくためにはそうした意識が必要だからです。

もっとも、今回の趣旨はこの問いかけを論じることではありません。それは私が語るべきものではなく、答えは皆さんそれぞれの中にあるからです。
じゃあ何がしたいのかというと、肯定が美徳とされる文化の中で、ややもすると異分子として排除されがちな「批判」に焦点を当ててみたいというのが今回の内容です。「批判」というものについて少し考えを深め、その上で我々はどのように批判に向かい合うのべきなのかを考えること。これが今回の目的です。

今回は少しばかりシリアスな話で、読むのにカロリーを使いそうなのですが、ぜひ最後までお付き合いいただけるとありがたいです。


◆そもぞもなぜ批判が必要なのか

まずはそもそも、批判にはどういう意味があるのか本当に批判する必要があるのか?という根本を見つめ直してみましょう。

誰かとの議論には、往々にしてゴールがあります。そのゴールに向かって一歩一歩、道を歩いていくのが議論の流れです。しかし、もしその道の選び方や、あるいは目的地そのものが間違っていると思ったら「この道は間違いじゃないかな?」と誰かが声を上げることでしょう。これが批判です。
そう考えると、批判が必要な理由も自然と分かります。なぜなら道を間違ったままだと、間違った目的地に到着してしまい、皆が困るからです。

つまり批判とは意見の表明であり、決して否定や攻撃とイコールではない。そして正当な批判であれば、皆にとってメリットがあるのです。これが批判が必要な理由であり、私たちが批判に耳を傾けるべき理由です。

ひ‐はん【批判】
1 物事に検討を加えて、判定・評価すること。「事の適否を批判する」「批判力を養う」
2 人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。「周囲の批判を受ける」「政府を批判する」


◆「良い批判」と「悪い批判」はどう違うのか

しかし一方で、私たちは批判が必ずしも良いものではないことを経験的に知っています。では、こうした「良い批判」と「悪い批判」の違いとは一体なんなのでしょうか?

既に述べたように、私たちが批判にも耳を傾けるべきなのは、それが皆にとっていい方向に働くかもしれないからです。この際、批判の内容が正しいかそうでないかは問題ではありません(なぜなら正否の判断は人によって変わるからです)。重要なのは、その批判の結果が皆にとっていい方向に働く可能性があるかということです。
こうしたことを考えると、何が良い批判で、何がそうでないのかが、おぼろげながら見えてくるのではないかと思います。

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つまりここでのポイントは、私たちは自分たちにとって良い結果をもたらすかもしれないので、批判には耳を傾けるべきである一方で、同じ批判でも耳を貸す必要のない「悪い批判」、無益な批判があるということ。そして悪い批判は、間違った批判と決してイコールではないということです。

例えば典型的な「悪い批判」としては、「飽きた」「つまらない」「オワコン」というような身のないコメントや、感情的な煽り、叩きといったものでしょう。これは論ずるにすら値しませんので、深くは掘り下げません。

ここで、善悪二元論による過誤を承知の上で、良い批判を善意の批判、悪い批判を悪意の批判とすれば、より話は明解になるかと思います。例えば善意の上であるが、批判としては間違っているというのが「間違った批判」。こう聞くと腑に落ちるのではないでしょうか(もちろんどれに該当するか、判断が分かれるケースも多いのですが)。

さて、少し整理できた所で、いよいよ実際に批判というものに向き合うことを考えますが、ここでもう一つ難しい問題が絡んできます。


◆批判する側と批判を聞く側のすれちがい

例えば、言う側が「そういうのはやめた方がいいよ」と善意で言ったとしても、聞き手側がそうは受け取らず、批判されたと思って怒ってしまうというのは実生活でも往々にして見られることです。
なぜなら批判というのは、やはり否定を含むことが多いです。そして否定とは、言ってしまえば一種の攻撃です。そうなると攻撃を受けた以上、防衛本能に基づいて反撃するというのが、生物としては自然な流れです。理不尽ではありますが、批判を受けた側というのは怒るのが自然な反応なのです。

これが善意の批判のジレンマです。たとえ良かれと思っての批判でも、その善意を聞き手に理解してもらうのは容易なことではないのです。

さらにややこしいことに、批判には「善意の批判」とともに「悪意の批判」という悪貨が紛れ込んでいます。受け手としては、善意の批判には耳を傾け、後者はスルーするのが理想ですが、両者を判別するにはまず悪口雑言にすら耳を傾け、怒りを抑えて理性的にそれを理解しなければならないのです。これは非常にストレスフルで、エネルギーを使う行為です。
そのため、人はついつい批判を全てを「悪意の批判」と見てしまいがちです。その方が圧倒的に楽だからです。ここに批判という行動の難しさがあります。

だから、良い批判が受け止められるには、本能的な怒りを抑え込み、批判者の意図を汲み取ってくれる理性的で聡明な聞き手がいなければなりません。ゆえにそれが現実的には難しいのは承知の上で、私たちは自らが賢く、我慢強い聞き手であるべきだということを自覚することが必要なのです。

◆批判をする側が配慮すべきこととは

批判する側にとって「善意の批判」というのは割にあわないものです。良かれと思って言っても、それは下手をするとただの悪口と同列に捉えられてしまうことすらあるのですから。
だからこそ聞き手は理性的で聡明な聞き手であるべきなのですが、誰もがそんな賢者にはなれません。そしてもしそうなれたとしても、特にインターネットのような悪意の批判に溢れた環境では、ストレスで心が先に悲鳴を上げ、ソウルジェムが濁りきってしまいます

だから、批判をする者は、批判を聞いて怒ることが人の本能的な反応であり「そういうもの」と悟った上で行動するしかありません。たとえ割に合わないと思っても、です。
具体的に何をするべきかというと、なによりもまず「自分が善意の批判者である」というメッセージを強く発信することです。自分の言葉が「悪意の批判」フィルタに引っかからないように、言葉を選び、相手の意見に配慮して、かつ論理的に相手を諭すのです。同じ批判でも、乱暴で断定的な言葉を使うのと、穏やかな口調で「あなたの意見は違うかもしれませんが」と挟みながら話すのでは、聞き手の反応は大きく違うはずです。
あるいは「あの人が言っているなら善意の批判なんだろうな」と思ってもらえるよう、常日頃から努力することです。これを一般には信頼と私たちは呼びます。同じ助言を、尊敬している人から言われるのと、仲も良くない取るに足らない相手から言われるのでは、受け止め方が違うのはお分かりでしょう。

つまり批判をする側は、自分の言葉が攻撃と受け止められる可能性をきちんと理解した上で、誤解を招かないように努力する必要があります。そして信頼という保証をみんなに積み上げるのです。それが割に合わないと思っても、自分の善意が罵詈雑言と同列に扱われる虚しさを考えれば、その方が何倍もマシなはずですから。


◆最後に

さて、VTuberの文脈でこうした「批判」の話をした時、いわゆる「物申す系」といわれる方々を思い出した方は少なくないのではないでしょうか。実はこの文章を書こうと思ったのは、そうした方々に物申す系に対するやや風当たりの強い雰囲気と、肯定的で暖かいVTuber文化の間の僅かなギャップを見て、はたして肯定と批判は両立しないのか?と疑問を覚えたことがきっかけです。

私の意見は、既にこの論の中で述べたとおりです。批判を受けて、それを肯定することはたしかに困難を伴いますが、本能的な反応を抑え、理性的な努力をすることでそれは成し遂げることが可能です。もちろん、それが善意に基づく批判であることを前提として。
私たちは、数ある悪意の批判から善意の批判を見つけ出し、批判をも肯定していく知恵と勇気を持つべきでしょう。それができてこそ、私たちはこれからも良い道を選んで進んでいけるはずです。

また一方で、善意をもって人を批判することは、まったく割にあわない行動に違いありません。ですがそれゆえに、人を良い方向へ導く批判は、勇気と責任ある行動であると言うべきでしょう。
ただし、その言葉をきちんと聞いてもらい、頷いてもらうためには、自分の言葉が攻撃とすら受け止められる可能性をきちんと理解した上で、誤解を招かないように可能な限り努力すべきです。細心の注意と適切な論理、なにより信頼を積み上げていくことで、その批判はより多くの人の心を動かすでしょう。それを怠るのは、自らの手で信頼にヒビを入れる行動に他なりません。


批判をする者とそれを聞く者。お互いの努力と信頼のキャッチボールが続いてこそ、互いが互いを肯定する幸せな世界が訪れるでしょう。耳痛い批判までもがVTuberの肯定の文化に受け入れられる未来を、私は願っています。


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また次の記事でお会いしましょう。


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