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私と同居人の「クモ」:嫌い合うもの同士がいっしょにいられたその理由

連日、少し短いエッセイの投稿となってしまっていることをお詫びします。
はたして、さして深い思索の伴わない私の文章に、皆さんに見て頂く意味があるのか…と悩みつつも、結局は思ったことを筆に仮託せざるをえない性分ゆえ、こうして今日もエッセイを書きます。

なお本文はTwitterに投稿したものを、多少追記・改稿したものです。元ツイートは↓のツリーから(と、いいつつ結局かなり加筆しちゃったけど…)


(以下本文)

私のお家は大きな森の裏にあります。そのため、よく大きな虫の姿を見ます。今日はこの雨を避けてなのか、窓の網戸の内側に大きな蜘蛛とカマドウマが一匹ずつ入ってました。

私は虫ははっきりと苦手です。アウトドアなどで「慣れ」はしましたが、特に大型の虫には嫌悪感と恐怖感を抑えられず、目にしただけでびっくりしてしまいます。
もっとも普段から殺生は良くないと思って自制しているのではありますが、我が家の換気のためには窓を開けざるを得ず、やはりクモもカマドウマも宅内に入っては欲しくないので、仕方なく殺虫剤を使い、網戸から退場頂きました…。

と、いうとただの虫嫌いの日常のワンシーンなのですが、ここで一方、実はここ半月ほど、私は家中に入ってきた大きめのクモと「同居」をしてたという実に矛盾した事実をお伝えせねばなりません。

繰り返しますが、私は虫がとても苦手です。
が、一方でクモは益虫の最たるものとして知られ、しかも大型の徘徊性のクモ人間に害はないし、むしろ私たちを怖がって逃げる上に、ゴキブリ等の衛生害虫を捕食し、駆除してくれます。
(この代表としてアシタカグモが「軍曹」として一部で親しまれていることをご存じの方もいらっしゃるのではないでしょうか)

そういう理由もあり、私は「とりあえず害はないのだから」と、気づいたら家中にいたこのクモを遠巻きにして、そっとしておくことにしました。
無論限られた家の空間の中での同居なので、たまに突然天井にいるのを見つけてびっくりしたり、昨日などはなんとお風呂で遭遇して「こんなとこまで入ってきちゃって…」とすこぶる驚きながらも、洗面器で外へ逃したりしてやったりしていました。
私の知る通り、「彼」はとても臆病で、そして私が近づくとすぐに逃げ出すし、そして私が気付かないふりをしていると近くを通ってもの場にそっと動かずいる、静かで慎ましやかな同居人でした。
私の虫に対する恐怖心から何度か驚かされたことこそあれ、本当に害されたと感じたことは、本心からなかったのです。

さて、話は再び今日に戻ります。
私が網戸の一見で、大蜘蛛とカマドウマを「排除」した後、リビングに行くと「彼」は部屋の床のど真ん中で実に堂々としていました。普段は天井や壁にいることが多いのですが、その姿はすっかり安心しきったかのようにも見えました。
今更驚きもせず、しかし私は家事をするためにあちこち歩き回りだします。すると彼はそれを恐れて右へ左へと逃げ回ります。私もあえて彼を追い回しているわけではないですが、生活の場が偶然重なるとそうならざるを得ないのです。
その姿を見て、ふと私の心に「やはり、彼もこの家内に居続けるのもやりづらいのかもしれない」という思いがよぎりました。私たちは同居人ではありましたが、やはり友人ではなく、互いの恐怖心ゆえに反発せざるを得ない存在なのだということを、改めて悟ったからなのかもしれません。

彼は逃走のあげく、ちょうど窓際あたりにたどり着きました。頃合いを見て、私は注意しながら「彼」を追い立てると、そっとベランダの外へと出してやりました。

そこで網戸と窓を閉めた時、私と「彼」の奇妙な半月間の同居と、その関係は終わりを告げたのです。それはすっきりしたような感じもありながら、君様なことに少し寂しいような感じもあり、私はベランダに佇む彼の姿を暫く見つめていました。


何度も言いますが、私は虫は嫌いです。無益な殺生は避けたいとは思いつつ、網戸を開けられないという明確な理由があれば、今日もまさにそうしたように躊躇なく殺虫剤を使います。忌避剤も撒いています。

しかしそんな私が半月もの間、奇妙にもその嫌悪感を感じざるを得ないクモと「同居」していたというのは、我ながら本当に不思議なことだったのではないかと思わざるを得ないのです。

世に「窮鳥懐に入れば猟師も殺さず」といいます。少し意味合いが違うのを承知の上で、私にとって「彼」との関係はそういったものでした。偶然迷い込んできてしまった、けれど直接の利害関係を伴わない相手であり、私はその対処に困惑しつつも、同じように懐に迎え入れることを甘んじて受け入れていたのです。

そして私が文中で「彼」と読んでいたように、私はそのクモを明確に一個体として認識し嫌悪感と同時に一個の人格としても認識し、関係性や奇妙な親しみすら感じていたのは紛れもない事実です。
でなければ、わざわざ風呂場という裸で安心しきった、至近距離での遭遇にもかかわらず、私が取り乱さずに彼を外にそっと出してやった、昨晩の出来事はありえなかったでしょう。

クモが昆虫であり、私たちと同じ情動を持ち得ないのは周知の事実です。実際、「彼」の認識下では私は生活圏における脅威であり、相まみえる機会は多いが危険性は低い大型個体という以上の認識でしかない。私は一個の同一の存在としてすら認識されていないでしょう。
けれど、少なくとも私の認識下では、一方的ではあるが「彼」の人格と私との関係性が存在していたのは、こうした物理的事実とは別に語ってもよいのではないでしょうか。


結局、今日で私は「彼」と別れを告げました。
それは疲れからか、哀れみからか、それとも「たまたま丁度いい機会だったから」という機会主義的な言い訳で本音を誤魔化しているのか。私には自分の内心は明確に言語化できません。
けれども、虫嫌いの私が、それでも嫌悪感を感じつつ彼と「同居」を続け、関係性と親近感を持った半月の時間は紛れもない事実です。

そこに何かを、単なる事象以上のことを感じざるを得ないのです。


本質を見れば、これは互いに嫌悪感と恐怖心を持つ「強い」存在と「弱い」存在が、それでも奇妙なことに争うことなく同居を続けたとも言えます。当然、それは私の自制と、彼の本能、そしてそれに対する私の信頼が前提にあってのことです。さもなくば、私は「彼」に殺虫剤を向けることに躊躇しなかったでしょう。
けれどもそうした諸条件さえ揃えば、たとえ嫌い合い、恐怖さえし合う両者であっても共存できる…と、教訓めいたことを考えるのは、大げさなことでしょうか。

いずれにせよ、生理的な嫌悪感や恐怖感は、直接の利害関係と決してイコールではなく、完全に分けて考えるべきものです。私たちはつい、それを忘れてしまい、衝動的な排斥に走ってしまいがちです。それは理性ある動物として慎むべきことです。
また、たとえ嫌悪感があろうと、自制や信頼の結果として衝動的な結果には至らなければ、細々とでも交流が続けることができ、そこには必ず関係性が生まれ、時には親近感も生じるでしょう。

異なるもの、憎み合うもの同士が手を携えるというのは実に困難を極め、どころか共存、あるいは分散しての併存すら簡単ではないことは歴史が語るところです。
けれども、人というのは本当に複雑で、一見すれば矛盾したような思考のバランスの上に生きています。だからこそ互いに自制と信頼を持つこと、より具体的に言えば嫌悪感や憎悪を直接の利害関係へと直結することを自制する理性と、相手もまたそうであると信じる心あれば、私が殺虫剤を「彼」に向けなかったように、共存と交流の可能性が少しずつ芽生えていくのだと、そう思いました。


随分大げさな結びになりました。何でも裏を読んで一般論にしたがるのは私の悪い癖です。
皆さんは、この私と一匹のクモがただ同居していたというだけのお話を読んで、何か思うところがありましたか?

と、いうところで今日は筆を置こうと思います。


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また次の記事でお会いしましょう。


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