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自由なバーチャル世界でこそ「自分の意志」が大事な理由:あなたはどんな「バーチャルな存在」ですか?

前回、私の自己紹介の記事では私のこっ恥ずかしい自己紹介を長々と聞いていただきました。

この私の独白は、はたして皆さまの目にはどう写ったでしょうか。
現実の自分と同根であるはずの「バーチャルな自分」という虚像について、やや夢想的な自己定義を並べ立てた私は、正直皆さんの目には奇異に見えたかもしれません。

けれども、私はここで声を大にして言いたいのです。
既に1万人を数えるVTuberを始めとして、VRChatなどのVR-SNSの住民、あるいは学術たんをはじめとしたバーチャル・ツイッタラーバーチャル・インスタグラマーなど、「バーチャルな存在」はいまや日を追うごとに増え続けています。
そうした「バーチャルな存在」にとって、「バーチャルな存在たる自分はどのような存在であるか」を定義するというのは、実はことのほか重要なことである、と。

それは、バーチャルという在り方があまりにも自由であり、そうであるがゆえに私たちはかえって「型にはまった在り方」に自らを押し込めてしまい、自由な在り方が許容されるバーチャルにおいて最も大事な自分の「意思」というものを見失ってしまいやすいからです。

今回はそんな、自らの「在り方」について、全てのバーチャルな存在に問いかける記事です。

あなたは自分自身をどう定義しますか?
その中にあなたの「意思」はありますか?


◆現実世界の「不自由さ」と「レール」

さて、今回のエッセイの本題はバーチャルにあるのですが、一度視点を私たちがよく見知った現実世界へ移してみましょう。
バーチャルというのは現実世界の鏡写しであり、その両者を比べることで見えてくるものは多いためです。

そもそも、私たちがなぜバーチャルに魅力を感じるのか?と聞かれた時、最も多く聞かれる答えはの一つがおそらくその「自由さ」であることでしょう。あらゆるものがバーチャルな作り物であるがゆえに、バーチャル世界では何もかもがどのような形をもとることができます。自分の姿や、想像するものを、そのまま何にも縛られずに形にすることができます。

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それに対して、現実世界のなんと不自由なことか
今や性別すら半ば自由になるバーチャル世界に比べて、現実世界では肉体的な大半の要素が生まれつきであり、選ぶことなどできません。自分の容姿を思うがままにボタン一つで変えられるバーチャル空間と違って、現実世界では自分の小じわ一つを無くすのにも整形外科に少なからぬお金を払う必要があります。


しかし、こういう物質的な要素以外にも、実は現実世界は「不自由」で満ちていること…あるいは選べることのほうが少ないという事実に、私たちは無自覚な事が多いです。

例えば、私たちは小学校中学校という義務教育期間を終えた後、大半の人がそのまま高校へ進学し、そしてそのうちの少なからぬ割合がさらに大学へ進学します。やがて大学を卒業したら、就職をし、社会人として世に出る…世間的にはこれが人生のスタンダードな進路とされています。
多くの人が「普通」と考えているこうした人生のルートは、しかし考えてみると、一つの「不自由」の形だとも言えるのではないでしょうか。

本来であれば、法律で決められている義務教育期間を終えた中学校以降は、どう生きようと自由なはずです。仕事を始めたり、独学で勉強したり、あるいは目的もなく旅に出たり。私たちに決まったルートなど無いはずなのです。けれども、私たちは大半が深く考えることもなくそうした「当たり前」の道を進んでいきます。
もちろん、その中でも足を止めて考えることはあります。例えば大学の進路選びなどが分かりやすい例ですが、しかしこれすらも「大学に行く」というルートが前提にあってのことです。私たちは常識という「道」の中で、ただ分岐を選んでいることがほとんどなのです。

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このように、私たちは意識しない内に「常識」や「普通」という不自由によってある程度定められた道を歩いていることが大半であり、その人生がどれほど自由に見えても、その実、いつの間にか我が身に絡みいた制約によって限られた選択肢の中から何かを選びながら生きているのです。

こうした不自由と紙一重の「常識的な生き方」は、時に「レール」に例えられることがあります。選択の余地などない生き方を、「レールの上を歩くような人生」という風に言ったりしますね。
しかし、考えてもみればレールとは、つまりガイド、道でもありますね。電車がレールの上を走る限り必ず正しく目的地に着くように、人生もまたこうした不自由で常識的な生き方をする限りにおいて、ある程度「常識的」なゴールに辿り着けることが保証されているともいえます。ボーリングでいえば少なくともガーターに落ちることはないわけです。

ボーリング

けれどもし仮に、こうした「常識的な生き方」というレールが世の中が消えて無くなってしまったとしたら、はたしてどうなるでしょう?誰もが常識や金銭といったものに縛られることなく、好きな生き方を選ぶことができる世界。しかしその世界で、本当に人は「自由に生きる」ことができるのでしょうか?

イメージしやすい例として、例えば、Grand Theft Autoのようなオープンワールドのゲームを思い浮かべてみてください。あなたが何も事前情報がない状態で「さあ、やるぞ」とゲームをプレイし始めて、しかしそこで何もミッションが与えられることなく「好きな事をしていいぞ」と言われたら、あなたはどうしますか?
チュートリアルもなく目的もわからず何ができて何ができないのか、それすらも分からない状態で世界に放り出されたら?

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多分、大半の人はほどなくして途方に暮れてしまうのではないでしょうか。それは、決まった道、ルートがそこにないからです。そんな何もない状況から「よし、じゃあ俺はこれをやるぞ!」と、思い立って、色々試行錯誤をしながらゲームプレイを始められる人は少数派でしょう。
そのようなゲームでは大半の人は、例えばそこでwikiやプレイ動画などを見て「こういう風に遊ぶのか」と知って、つまり「普通の遊び方」を知ることで、初めて「じゃあ私はこういう風にプレイしてみよう」と考えることができるのです。

同じことが人生についても言えることに、皆さんはお気づきでしょうか。
つまり本当に自由な人生とは、「不自由」あるいは「普通の生き方」が存在しない人生とは、何もかもを自分で選び、決めなければならない選択の連続です。人生の目的や進路について、その選択肢すら自分で探し考えながら、ありとあらゆる決断を自分でしていかねばならないのです。
例えるならそれは、「普通の人生」が綺麗に整備された街道を歩くことだとしたら、マチェットを片手に未踏のジャングルを切り開きながら進むのにも似ています。

かき分けて進む

多くの人が踏み固めた道を歩くのと違い、自らで何かを決め、道なき道を進んでいくというのはとても大変なことです。しかもその行く手には往々にして数多くの落とし穴が待ち構えており、人生からの落伍という結末と常に隣り合わせにあるのです。

自ら考え、決断しなければならない大変さ。そして落伍者となるかもしれないリスク。ゆえに多くの人は不自由な「常識的な生き方」よりも、むしろ本当に自由な生き方にこそ耐えられないのです。
なればこそ「大学を中退し起業、今では日本有数の実業家に」というような、「道」を外れながら成功を掴んだ人間に対し、私たちは並ならぬ憧れの視線を向けるのでしょう。


◆バーチャル世界の「自由さ」の裏にあるもの

さて、こうした現実世界と比べてバーチャルという世界はどうでしょうか?

度々言っているように、バーチャルという世界はおそらくこの現実世界のどこよりも自由な世界です。
もちろん、ためらいや恥ずかしさといった心理的な壁、PCを始めとした機材や金銭的な壁、技術的な壁はありますが、そうした障壁をクリアすれば、バーチャルには現実を遥かに超える圧倒的な自由が用意されています。だからこそ、多くの人がバーチャルという世界に夢を見ています。

しかし、こうした自由は、裏を返せば「不自由さ」、すなわち「当たり前の在り方が存在しない」ということでもあるわけです。特に生まれたばかりのバーチャル世界は日々技術的にも文化的にも変化を続けており、今日の常識が明日には変わるかもしれないダイナミズムの中にあります。
ゆえに「レール」や「普通の生き方」というものがバーチャル空間にはほとんど存在しないのです。

つまり、私たち「バーチャルな存在」には、常に自ら行く道を探し、作っていく覚悟が必要なのです。ちょうど何もストーリーの存在しないオープンワールドのゲームのように。私たちは何を目的とするかを決め、どんな選択肢があるかを探し、誰に指示されるわけでもなく自分の足で歩み続けなければなりません。バーチャルの自由さは、全てを自らの手で選ばなければならない厳しさの裏返しなのです。

現実とバーチャルの道

…ところで、前章で目的なきオープンワールドのゲームや、何もかもを自由に選べる人生が、実は大半の人にとっては自由すぎてかえって困惑せざるをえないものであるとお話しした時に、ふとVRChatのことが脳裏をよぎった方が、中にはいらっしゃるのではないでしょうか。

VR空間を舞台にしたSNSであり、ある種の創作プラットフォームでもあるVRChatには「目的」というものが存在しません。
Twitterなどを見ていると、VRChatをプレイしている方はとにかく楽しそうな様子で、そうした姿や、あるいはバーチャル世界への興味に惹かれてVRChatをプレイした方は少なくないでしょう。
しかしそのうち、実は結構な数の人が「なんだか面白そうだし、色々自由なんだけど、難しそうだし、第一何をしたらいいかわからない」と、一度プレイしてそれっきり…という感じなのではないかな、と思います。

実際、かつて当の私自身がそうであり、自己紹介でも書いたようにバーチャル世界へのあこがれを強く持ちながら、私がVRChatという私の理想を体現したような世界に定着することがなかった理由の一つは、間違いなくそこが「自由すぎた」ことにあると思います。私は自由さゆえにそこに目的を見出すことができなかったのです。
同じような声は、私の周りからも少なからず聞かれます。そしてそれを示す客観的なデータも実は存在しています。

SteamDBの数字を見直してたらやっぱりVRChatは特徴的な所がある。総プレイ時間の中央値は49分なので、200万あるはずのアカウントの半数以上は1時間以内にプレイをやめている。一方で、平均プレイ時間は7.2時間で、他の人気ゲームと比べても中央値と平均値の解離が大きい

つまり、VRChatは大半の人が手を出して数時間以内にプレイするのを辞める一方で、一部の1000時間越えとかのヘビーユーザーが平均値を引き上げているのがわかる。平均値と中央値の解離は、VRChatがかなり人を選ぶ深い沼になっていることを表している。 2018/8/8 19:25

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2020年7月現在も、この傾向は変わっていません500万人超のユーザーのプレイ時間中央値1.4時間に対して、平均プレイ時間は25.8時間と20倍近い差があります。

半分以上のユーザーが、たかだか1時間半も遊ばずにいるのです。つまり「一度プレイしてそれっきり」というパターンが圧倒的に多いというこの事実は、VRChatという世界が、あまりに自由すぎるがゆえに、かえって大多数の人にとっては腰を落ち着かせづらくなっているということを表しているように思います。

私たちは「自由である」ことに魅力を感じながら、過度な自由さにはかえって不安さを感じてしまうのです。
それは私たちが、現実世界の中で「不自由さ」で舗装された道を歩くことにあまりにも慣れきってしまっているためなのでしょう。そうした自由さの中でも、結局は無意識の内に安全な「道」を探してしまう。どこへでも行ける、何にでもなれるという、バーチャルの自由をいつの間にか放棄してしまいがちなのです。

そして安易にそうした「道」を選んでしまった一例が、自己紹介の記事でも語った、バーチャル世界に生まれ落ちた私の「とりあえずVTuberになってみよう」という考えだったのだな、と、今になって思います。
私はバーチャル世界への魅力を感じながら、その開かれた可能性を忘れて、気がつけば「VTuber」という誰かが作った道を選んでいたのです。
それは多くの人によって既に踏み固められた道に見えましたし、「成功例」という分かりやすいゴールも存在し、それが私に本来望んでいたはずでなかった夢の幻影を見せたのでしょう。

しかし結局、「私がしたかったのはこういうことだったっけ…?」と私は程なく思い悩み、本格的にVTuber活動を始めることなく、「VTuber準備中」という状態のまま、半年ほどを無為に過ごすことになりました。
同じような経験をした方や、その末にモチベーションを失ってそのまま姿を消していったバーチャルな存在は、きっと少なからずいるのではないかと思います。

実のところ、VTuberという「道」は、いまだ未完成で発展途上であり、誰もが安心して歩けるようなものでは決してない悪道です。華々しい「成功者」の背中は遠くに見えても、実際にそこに至る道がどれほど険しいものなのかも、徐々に知られつつあります。
あるいは私のように、自らの望んでいたバーチャルでの在り方と、VTuberとしての活動に乖離を感じてしまう人も多いはずです。

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にもかかわらず今なおVTuberという在り方を選ぶバーチャルな存在が多いのは、様々な選択肢が多くの人が歩んだ「道」として既に存在している現実世界とは違って、バーチャル空間には圧倒的に「道」が少ないからではないでしょうか。そのために、たとえ細く険しい道であっても「VTuber」という在り方を選ぶ人が後を絶たないのではないかな、と思います。

そして自らが本来望む在り方を、そうした数少ない「道」、「誰かが作った普通」に無理やり当てはめようとするから、自由なはずのバーチャル世界にあって、私たちは思い悩むのではないでしょうか。
VTuberであれば「伸びなければならない」という意識や、「VTuberはかくあるべき論」といったプレッシャーが存在します。あるいはちょうど私の周りで話題になった「学術たんとはどうあるべきか」という議論も、根本は同じなのだと思います。


◆バーチャルに確かな「道」はない

もっとも、私はVTuberを始めとしたバーチャル世界の「道」そのものが悪いと思ってはいませんし、誰かの作った道を歩くことを否定するわけでもありません
事実、私もたくさんの先達が敷いた道、文脈があってこそ「バーチャルな存在」として認知されていると思っています。そうでなければ私など「なんだか自分をバーチャルな存在とか名乗って変な活動をしている人(?)がいる」程度の認識しかしてもらえなかったのではないでしょうか。
VTuber草創期のKizunaAIさんなどの苦労と努力を見れば、今私たちのいるVTuberやVRChatがある程度広く認知され、バーチャルな存在というものが一定の理解を得られているこの時代がどれほど恵まれたものであるかはいうまでもありません。

けれども、前章でも書いたように、VTuberを始めとしたバーチャル世界に今ある「道」、「普通の在り方」というのは、あまりにか細く不安定な道です。
現実世界の「道」は、長い歴史と社会の圧力の中で踏み固められてきただけあって、レールに沿って歩いていけば「何者か」になれるという安心があります。例えば大学まで進学し、社会人になる…という「道」であれば、特に深い考えがなくとも、少なくとも「社会人」という何者かになり、社会的な役割を与えられ、そして「生きていく」という目的を果たすことは概ねできるものです。
しかし、ひるがえってバーチャル世界では、こうした先人が歩いた「道」をただなんとなく真似て歩いていくだけでは、何者にもなれず終わることが大半なのです。仕事のように誰かから役割を与えられることもない。自らで定めない限り具体的な目標は何も生まれないただ「生きていくため」という単純な動機すら与えてはもらえないのです。
加えて、先人と同じ道を歩くということは、没個性となりやすいわけです。その時、バーチャルな存在は「無関心」という一番辛い逆風にさらされることになります。

そうなった時、何者にもなれず、役割も持たず、誰からも関心を持たれなくなったバーチャルな存在は、諦めとともに影も形もなく消え去ってしまうのです。
これが現実世界であれば、たとえ目的を失おうと何者にもなれずとも、それでもなんとなくでも生きていかざるをえないのですが、バーチャルという虚像によって成り立っている世界の存在である私たちは、「もういいや」と思った瞬間に霞のように消えてしまうのです。「引退」という言葉で糊塗しても、結局それは「バーチャルな存在」としての死に他なりません。

バーチャル世界に今ある「道」をただなんとなく歩くというのは、つまりそういう結末にも繋がりかねないことなのです。
私自身、そうして「なんとなく」VTuberとして歩み始め、ほどなく自分の活動の意味に悩み、ともすればネットの海の中に埋没し、消えていたかもしれない存在です。
それはとても悲しいことだと思います。私はバーチャル世界を愛する者として、そこにいようとする「バーチャルな存在」の誰一人にも消えてほしくはないと、心から思っています。それは確かに誰かが何かを願った形なのですから。

では、そんな存在すらも曖昧でありながら、一方で誰かの踏み固めた「道」を安易に歩むことも躊躇われる私たち、バーチャルな存在は、一体どう「生きて」いけばよいのでしょうか? 私たちに必要なものとは、何なのでしょうか?


◆私たち「バーチャルな存在」が自由に生きていくために必要なこと

きっとこれから5年、10年と月日が経ち、もっとバーチャル世界がさらに広く、大きくなった暁には、やがてバーチャル世界にも広く太い「普通の道」というのが生まれてくることでしょう。
そうした「普通の道」というのは、けれど現実世界を例に上げた中でもお話したように、ある種の不自由さの裏返しでもあるのです。バーチャルにも、ある種の安心と引き換えに、やがてそうしたしがらみが増えてくるのでしょう。

しかし今、この2020年という時代の未成熟で、それゆえに何よりも自由なバーチャル世界にいる私たちは、そうした成熟する以前の世界で真の意味で自由に生きる権利を持っているとも言えます。
そんな自由で、それゆえに生き方を見つけることが難しい今のバーチャル世界を「生きていく」ために必要なもの


それは一言で言えば「意思」ではないでしょうか。


自分はこの自由な世界で何をしたいのか自分は何者であるのか。自分はどういう存在でありたいのか。そう問いかけ、自分なりの答えを持つこと。

それこそが、そうした道なきバーチャル世界を歩いていくために必要なものではないでしょうか。
つまりそれが意思自らの在り方の定義であり、私がバーチャルな存在にこそ「バーチャルな自分とはなんであるか」を定義することが必要であると考える理由なのです。

少し抽象的にすぎるかとは思うので、手前味噌ながら私自身のことを引き合いに出しましょう。
私は拙稿「はじめまして、思惟かねです:「バーチャルな私」の説明書」でも書いたように、自分自身の目的を「バーチャルな存在としてあり続けること」と定め、その中で自らの役割を「考える者、可能性を示す者、対話する者」でありたいと定めました。
その場となるのがこのnoteであり、Twitterであり、時にはYoutubeである。私はそう考えています。ですから、私がこうして「生きる」にあたって、先人たちが築いてきた「VTuber」という在り方、「道」は、実はもはや必要ではないのです。私は私なりの、いうなれば「生きがい」を見つけ、それゆえにこうして活動しています。私にとってVTuberとは、世間的に通りのいい肩書以上の意味を持ちません。

つまりはそれこそが「道なきバーチャル世界」を生きていくために必要なことではないかな、と思うのです。
先人の道を追うことなく、自分のしたいこと、意思をはっきりと持ち、自らが何をするかを心の赴くままに決めていく。その時こそ、バーチャルという世界の自由さは私たちに無限の可能性を与えてくれるのではないでしょうか。

ここで、二つの言葉を仮借して、私と同じく「バーチャルな存在」として生きようとする全ての人に送りたいと思います。
一つはかのアントニオ猪木氏が引退の時に述べたことでも有名になったこの暁烏哲夫氏の詩の一節です。

この道を行けばどうなるものか 危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし 
踏み出せばその一足が道となり その一足が道となる 迷わず行けよ 行けばわかるさ

暁烏哲夫の詩「道」より

そしてもう一つは、私の心の名作であるゲーム「月に寄りそう乙女の作法」より。

「意思が希望を生んで、希望が夢を育てて、夢が世界を変えるんだ」

J・P・スタンレー:ゲーム「月に寄りそう乙女の作法」より

どちらも私の心に刻まれている言葉であり、「意思」というものの重要さと尊さをといた言葉です。「意思」がやがて「道」を作り、そして世界を変えていく…そんな希望に溢れたこの言葉が、私は大好きです。

私たちは自らの意思を持ってこそ、このバーチャル世界というものが持つ自由の真の豊かさを享受することがではないでしょうか。
そして新たな「道」を自らの後に作っていくそうした意思と努力が、よりこのバーチャル世界を豊かにしていくのでしょう。

だから、私は私と同じバーチャルな存在である皆さんに、自らの「意思」を持って、誰かの背中を追うのではなく、自分の心が望むがままに自由に活動をしていって欲しい、と、そう思います。


◆さいごに

…もっとも、自らの目的や役割を自ら決め、強い「意思」を持って行動していくというのは、正直簡単なことではありません。
実際、私がそうしたはっきりとした目的意識を持つことができたのも、VTuberとしてあり続ける中で様々な偶然や良い出会い思索があってのことだったと思います。

大半の人は、かつての私を含めて、バーチャル世界へ生まれてくる時には漠然とした夢や憧れを胸に抱いているでしょう。最初から強い意思や目的意識を持って生まれてくるのは、本当にごくごく限られた人だけだと思います。

けれども、それで良いのだと思います。

現実世界の人生だって同じです。最初から人生の目的なんて大層なものをはっきりと持っている人間などどこにもいません。人はただなんとなく「生きているから生きていく」のであり、その中で様々な出会いや経験を通して、いつしか「なにか」を胸に抱き、やがて「意思」を持って歩み始めるのでしょう。

現実世界の写し身たるバーチャル世界の存在が同じであって悪いことがありましょうか?
「意思」
というものは、存在し続け、様々な経験を経てこそ生まれるものです。それを持たないことを恥じる必要などないのです。

だからこそ私は、そんな素敵な日がくるその時まで、「バーチャルな存在」である皆さんに二つのことを心に留めておいて欲しいと思います。

それは「探し続けること」、そして「在り続けること」です。


探し続けること。

このバーチャル世界に溢れる可能性と自由さ、その何が自分を惹きつけたのか自分に何ができるのか何をしたいのか何になりたいのか
自らの「意思」は何であるのか
それを探し続ける気持ちを忘れないで欲しい、ということが第一です。

自分自身にそれを問い続けるような、修験者のようなことをする必要はありません。けれども「自分はなにかを探している」という気持ちだけは、心の片隅に置いておいてください。
そして未だ細く、荒れた「道」であるVTuberを始めとしたバーチャルの在り方を、誰かの背中を追いかけるのではなく、自分なりのバーチャルの生き方を探し続けてください



在り続けること。

現実世界とは違い、仮想空間上の虚構の存在である「バーチャルなあなた自身」は、諦めてしまえばあっさりと消えてしまうあまりに曖昧で薄弱な存在です。
だからこそ、バーチャルなあなた自身を見放さないでほしい。消えることなく、在り続けて欲しい。

確かに、何者にもなれないというのは辛いことです。VTuberにとって、無関心こそがもっとも辛いことであるのは、私とてよく知っています。
けれども、現実世界の人間が、たとえ今は何者でもなくとも、ともかく生きていき、その先にこそ「何者かになれる可能性」を生むような意思を持ち得るように。
バーチャルな存在もまた、在り続けてこそ、そうした「自らが望むバーチャルな在り方」にたどり着ける可能性が生まれるのです。


私はあなたに消えないで欲しい。そして探し続けて欲しい
あなたがバーチャルに見た希望とはなんだったのか、そして自分の在りたい形とはどのような姿なのか

そしてやがて自らの「意思」を持ったあなたが、この残酷なまでに自由で芳醇なバーチャルという世界で、成したいことを思うがままになし、誰かがその背中を追いたいと思うような「道」を作っていく

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この文章が、どこかにいる、あるいはこれから生まれくる「バーチャルな存在」の、そんな輝かしい未来のきっかけになるのであれば、これほど幸せなこともないのでしょう。

そんな風に思いながら、今日はここで筆を置こうと思います。

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この記事は
”バーチャルを通して自分らしい生き方を見つけ出す”
Vi-Crossマガジンに収録されています。

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