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私とは何か 「個人」から「分人」へ を読んで

最近、note内の記事で分人主義という言葉を目にするようになった。調べてみるとタイトルの本が出てきたので読んでみた。10年以上前に発売されていたが、ここ最近までおそらく分人主義という言葉は耳にしたことが無かったように思う。

僕はその本を読む前に著者の肩書などを見てから読むことにしている。著者は小説家ということで、その先入観も相まって今回読んだ内容は、フィクションとノンフィクションの中間の位置づけの印象を受けた。

「分人dividual」とは、「個人individual」に代わる新しい人間のモデルとして提唱された概念です。

「個人」は、分割することの出来ない一人の人間であり、その中心には、たった一つの「本当の自分」が存在し、さまざまな仮面(ペルソナ)を使い分けて、社会生活を営むものと考えられています。

これに対し、「分人」は、対人関係ごと、環境ごとに分化した、異なる人格のことです。中心に一つだけ「本当の自分」を認めるのではなく、それら複数の人格すべてを「本当の自分」だと捉えます。この考え方を「分人主義」と呼びます。

職場や職場、家庭でそれぞれの人間関係があり、ソーシャル・メディアのアカウントを持ち、背景の異なる様々な人に触れ、国内外を移動する私たちは、今日、幾つもの「分人」を生きています。

自分自身を、更には自分と他者との関係を、「分人主義」という観点から見つめ直すことで、自分を全肯定する難しさ、全否定してしまう苦しさから解放され、複雑化する先行き不透明な社会を生きるための具体的な足場を築くことが出来ます。

分人主義公式サイトより

individual は、 in + dividual という構成で、divide( 分ける)という動詞 に由来するdividualに、否定の接頭辞inがついた単語である。individualの語源は、直訳するなら「 不可分」、つまり、「( もうこれ以上)分けられない」という意味であり、それが今日の「 個人」という意味になるのは、ようやく近代に入ってからのことだった。

個人は、分けられない。これは、人間の身体を考えてみるならば、当たり前の話だ。

では、 私たちの人格はどうだろう?  体と同じように、 分けることができない、唯一のものなのだろうか? 当然じゃないか! と、これ までは考えられてきた。 しかし、 本当にそうだろうか?

すべての間違いの元は、唯一無二の「 本当の自分」という神話である。   たった一つの「 本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「 本当の自分」である。

個人を整数の1とするなら、分人は、分数だとひとまずはイメージしてもらいたい。私という人間は、対人関係ごとのいくつかの分人によって構成さ れている。そして、その人らしさ( 個性)というものは、その複数の分人 の構成比率によって決定される。分人の構成比率が変われば、当然、個性 も変わる。個性とは、決して唯一不変のものではない。そして、他者の存在 なしには、決して生じないものである。

本書より

著者が言うには自我(=「本当の自分」)は一つだけで、あとは、表面的に使い分けられたキャラや仮面、ペルソナ等に過ぎないという考えは間違っているらしい。

理由その一。
もしそう考えるなら、私たちは、誰とも「 本当の自分」でコミュニケーションを図ることが出来なくなるからだ。

理由その二。
分人は、こちらが一方的に、こうだと決めて演じるものではなく、あくまでも相手との相互作用の中で生じる。キャラや仮面という比喩は、表面的と いうだけでなく、一旦主体的に決めてしまうと硬直的で、インタラクティヴ でない印象を与える。

理由その三。
他者と接している様々な分人には実体があるが、「 本当の自分」には、実体がないからだ。 ─ ─ そう、それは結局、幻想にすぎない。

本書より

分人の構成比率(分母も分子も)は人によって違っていて、スイッチングは中心の司令塔が意識的に行っているわけではなく、相手次第でオートマチックになされていると著者は言う。

また著者は、分数である分人を全て足すと1になるかは、本文中で保留をつけた表現にしたと言っており、一人の人間の中の分人同士は、混ざり合う方がいいのか、それとも分かれている方がいいのかについては、両方があり得るという考えを示している。

これらに対しての僕の意見はこうだ。

分人かペルソナかはさておき、相手によってこちらの態度が多少なりともかわるのは間違いない。しかし、オートマチックに切り替わるかどうかは疑問が残る。

確かに感情が昂って無意識的に出てくる言動などは分人というか人格の一部だと思う。どのような場面でどのような態度を示すかはもちろん人によって違う。ただ、日常生活においてはその人の標準の態度みたいなものはあると考える。

その状態からTPOによって、何かしらの意識的な言動の変化は起こっているだろう。基本的に、その場ではふさわしくない言動を意識して過ごすことは日常多くあると思う。集団社会の中で生活をしていると、社会通念上、暗黙のルールのようなものを無意識的に強いられていることがあるかもしれないが、それに背こうとした時に、どうなるかを意識して言動を変えることはあるはずだ。人は自分が不利益を被らないためにTPOに合わせて不適切な言動を避けている。

また、僕は分人は独立はしていないと考える。足して1にはならないだろう。重なっている部分があるはずだ。公式サイトに分人の円グラフがあったのも違和感があった。

それに、例えば複数人同時に相手をする時は、その人数分の分人が出現するかもしれないが、そこでは出番のない待機中の人格のような何かはあると思う。一個人の中にあるリソースを適宜判断して意識的か無意識的かはわからないが、割いている(割かれている)と僕は考える。

加えて、一人で過ごしている時などは、その瞬間はある程度の分人は統合されているイメージがある。統合というか対人用のリソースを極限まで使用していないという感じだ。

分人の考え方自体は、この人はそう考えるんだという認識であり、人の考えのため僕はしっくりきていない。どうしても分人の機能の仕方に違和感がある。

それに分人がオートマチックに機能しているより、仮面ペルソナをかぶる方がかっこいいから好きだ。

あとは、分人が完全に独立していれば嫌なこともその分人だけで処理できるのかもしれないが、分人が何人いようと全て個人にかえってくる。

漫画とかでよくある抑圧された別人格などは、意識的にはつくれないし、仮にそういう状態であったとしても、精神を含む人体には何らかの悪影響を及ぼしそうだ。

分人主義という考えを理解し受け入れたとして、自分の生き方にどう適用するのかがわからないというのが僕の率直な感想である。

こういった思想系のものは、著者の考えを読者にあますことなく伝えるのは不可能に近いものだと考えている。言語化されていないイメージや感覚みたいなものは少なからずあり、それらが実は重要な要素であるということも十分に考えられるためだ。

ちなみに(本当の)自分というのは僕にはわからない。わかる人いるの?

noteで真面目な内容と冗談気味の内容の記事を書いている自分、どちらも自分だ。

※能動的ではなく、好ましい状況ではないが、仕事で忙しいときはもう一人自分がいればいいと思うことがある。分人ではなく分身が欲しい。ネガティブな妄想だ。これを考えているのは分人ではない認識でいる。

おわり

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