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クリスチャンだけど、まーじでこういう看板やめて①

クリスチャン用語は様々。
その多くは私にとって、『なんか、こわい』ものばかり。
特に、「罪」。。
「人間は罪深い」「わたしたちは罪人」「罪を悔い改めよ」
こういう文字列が黒地に白と黄色の筆文字風書体で厳格に書かれてる看板?とか見かけると「キリスト教ってやばそう...!!」となる人も多いでしょう。。
やめてあのオゴソカマジック。。ほんとに。。。まじアーメン。。。
オゴソカマジック!

「人間は罪深い」「わたしたちは罪人」「罪を悔い改めよ」
いやいやいやいや、
『そんなそんな、急にそんな人間全員罪人指定されましても、
ワタシ善良な市民ですし困りますよそんな、急に。。』って思うでしょ?思うよね?私は思った! 思ってましたよ!ええ!!

今日は少しこの辺の誤解が和らいだらいいなって思いますね。

   


人間は泥水 泥=罪

「人間は泥水が入ったコップみたいなものなんです。クリスチャンになってコップは新しくされても、泥は完全には取り除かれないんです。」ってこないだの礼拝で牧師先生が言ってて、すっごい納得。
人間は普段、好調な時は泥水が沈殿して水が透き通った状態でいられる。
でも、
ネガティブな感情が生まれてきた時(妬み、悪意、貪欲、傲慢。無分別)、その感情が、コップのなかをかき乱して、一気にコップの中は濁ってしまう。時間が経てば泥は再びコップの底に沈殿して、水は透き通るかもしれないけど、コップが揺られたらまた濁ってしまうし、ネガティブな感情は自分では抑えられないことがほとんどだし、ひとたび濁ればまた透き通るには時間がかかる。

クリスチャンになったからと言って、泥が完全に取り除かれるわけではない。でも、クリスチャンのコップは、ノンクリスチャンのときのコップとは性質が違う。
イメージ的には
泥水が上がってこないように、十字架がおもしになって、コップの中がかき混ぜられないように、コップが揺らがないようにしてくれる。

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私が聖書によく描いている絵をうれしはずかし後悔しちゃう💖



「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである。ーーー人から出てくるものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出てくるからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、妬み、悪口(あっこう)、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出てきて、人を汚すのである。」Mark7:15-23(新共同訳)抜粋

イエスが群衆に、「人間を汚すのは外から入ってくる食べ物じゃなくて人の心なのよ」って言うシーン。
悪いことは人の心から生まれているんだ。
例外なく、すべて。

罪は、意外と日常にひそんでいる。
妬み、貪欲、傲慢、、、私それよくしてる!!←じゃあ悔い改めなさいw

クリスチャンももちろん、
ネガティブな感情を持つかもしれないけど、そのたびに、祈りで自覚して、
ああ、もっと良くなりたいなあ〜、もっとイエスの似姿に近づきたいなあ〜と思いを馳せるのです。

クリスチャンは禁欲的「でなければならない」?

よく「しなければならない」ことが多いんでしょう?息苦しくない?と聞かれることがある。
でも、やってはいけないことは概ね、上の「罪」くらい。罪という言葉こそ大げさかもしれないけれど、しないほうが当たり前に幸福感はアップするのは自明。神様は、ただ、私たちに幸せに生きて欲しいのよ。でも、頭ではわかっててもどうしても無意識下で人を妬んだり、うらやましがったり、憎んだり、気づかずにしてしまうことが多いのかもしれない。にんげんだもの。しかたがなっしんぐ。それはしゃーない。

この聖書の言葉を守ろうと頑張ることによっていいことがあってね、

例えば、
クリスチャン同士で話してる時に、誰かが罪っぽい話をしていたら、「罪よ、罪!」と一言指摘したら、すっと円満解決する(※)けど、もし、ノンクリスチャンに対してだと、きっと指摘したらけんかになっちゃうし、指摘しないでいて同調して話聞き続けるのはつらい。。でしょう? ずっと他人の羨ましい話をして盛り上がったこと、ある? その他人の噂話が何か次のステップに進むポジティブな方向性持ってること、ある?
ない。
みんな神様だいすきだから、聖書の言葉に忠実に生きたいと思ってる。
結構生産性上がる。

例えば、
反抗期のお子さんに注意するときも、信仰あるお子さんはお父さんお母さんには反抗するかもしれないけど神様には反抗しないから、スッと納得してくれるはず。「○○ちゃんは自家用ジェットで家族旅行だって〜!いいなあ〜!」「こらこら染五郎、それは罪よ!つーみっ!」「うっせえなだまってろよババア!」「染五郎!天のお父さんに謝りなさい!」「......。」ってな具合に。(まじで?)  いや知らんけど!市川染五郎くんかっこいい!!←

聖書って便利。
不要な摩擦要らず。ストレスフリー!あざーすジーザス!
信仰がコミュニケーションの潤滑油になってるイメージ。
共通言語、というか。

※実はこんなシチュエーションはそうそうない笑※


聖書は「裁くな
(人や物事を良い悪いと主観でジャッジしてはいけない)」
と言ってるから。
人を裁いていいのはイエスおひとりなんです。だからクリスチャンは他人の直してほしいところを見つけたら、まずは自分が直すようにする。相手に気づかせ、直してくれるのは、イエスただひとりなので、ただただ、祈る!!それだけ!!
超絶平和的解決!!
ノンコンフリクション!!イェーイ!!

聖書はみんなが気持ちよく生活するためのハウツー本

「聖書」と聞くと、なんだか重々しい、厳かなイメージがつきものかもしれない。
でも読んでみると意外とカジュアルに読み進められるし、ノンクリスチャンの人にとっても生活のヒントに溢れている。外国語勉強したいときも役にたつしね!
そもそも人間、聖書が書かれた2000年以上前からそんなに変わってない。
世代特有の悩みも、かかえてる不安も、2000年前の先人たちと変わらないなら、おんなじことで悩むのって、二度手間、二度じゃおさまらないくらい手間!もう何度手間?[創造から今までの地球上の人間の数]度手間!!ウワーオ!

聖書読んで、毎日楽しく。
無料アプリでも簡単に読めるので、ぜひぜひ読んでみてくださいな。
日曜は気軽にお近くの教会に遊びにきてみてね笑

つまり何が言いたいかって
黒地に白と黄色の文字の看板、まーじでやめて!笑笑




このあと信仰を以って編集後記。

[イエスは私たちが汚い泥水にならないために... 〜あざーっすジーザス!〜]

  


イエスは私たちが汚い泥水にならないために十字架に架かられた 〜あざーっすジーザス!〜

イエスは、すべてのコップが持つ泥のために
神の権威を捨てて地上に来て
十字架に架かられた。
全く罪のないイエスが、罪人の私のために死んでくれた。
すべては、愛する私を救うために。

なんという愛の深さなんだろう。
なんという、憐れみの深さなんだろう。

見もしない未来の私のために死んでくれた、
    ......と考えるのはあまりにも人間的でイエスに失礼か。

イエスは時空間をもつかさどっているから、十字架に架かられた当時も私のことをすべて、髪の毛の本数まで知っておられた。
そして今も私とともにいる。

すげえっすジーザス...!!


イエスはこんなに罪深い私を
友達といってくれた。

今こうして、祈りの中で生活していると、毎日、
神様が「おかえり」って両手を広げて愛を注いでくださっているのを感じる。
「なんにも心配いらないよ、私があなたの神だから」
地球上のすべての秩序を創られた方を、父さんと呼ぶことができる。

これ以上にすごいことってある?!

地球上のどんなすばらしい栄光より、父といることのほうが誉れ高い!

ああ主よ、父なる神よ、聖霊よ
どうか今日も私を用いてくださーい!

LOVE!!


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