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なんでキリスト教一択?その2

 ちょっと前にインスタでこの質問をいただいてから、よくこの問いについて考えるようになりました。

 いろいろな宗教・教え・先人たちの知恵を、人生をよりよくするために様々挑戦してきたことは、前の投稿でもしたのだけど、さっき聖書を読んでいて、そう言えば、これも一つの理由かなと思ったので、追記というよりも新しい投稿で付け足しまする。

新しい契約の書:新約聖書

 一般的にクリスチャンは、旧約聖書(キリストが生まれる前の契約の書)と新約聖書(キリスト以降の契約の書)という本を「聖書」と呼んで、この全てを信じています。興味深いのは、聖書の中には完璧な人はある一人をのぞいて出てこないことです。現代でいう完璧な人とは、富や名声を得て成功している人をいうかもしれません。もちろん、聖書にも世界中の富を手に入れた王が出てきますが、どんな富を得ても神に感謝せず、300人の女性と関係を持っても心が満たされず、酒に溺れ、ついには人生を無にしてしまうのです。信仰の父と言われたアブラム(のちのアブラハム)も、なんやらかんやらここでは言いづらいことをやらかしてしまいます。

 旧約聖書も新約聖書も、書かれていることはイエスキリストの系図・イエスキリスト来臨・救世主イエスキリストの再臨と、一貫してイエスキリストについてです。ただ、新約聖書は、それまでユダヤ人のみ救われるとされていた契約を、異邦人(ユダヤ人以外)も救われるとしたので、新しい契約と言えます。

女性蔑視の世界観の中で

 注目すべきは、この聖書の書かれた時代背景です。旧約の最初の5冊(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)はモーセが書いていて(多分)、新約の最後の1冊はキリストの最初の弟子:十二使徒の一人:ヨハネが書いています。ここまで何千年もかかって1冊の聖書が書かれているわけなのですが、一貫して、世界の女性に対する考えは「女性蔑視」であったはずです。2020年になっても、フェミニストと呼ばれる人々が女性の人権を叫ぶほどなので、西暦30年頃は、もうモノとしか思われてなかったでしょう(当時の文献などで、群衆の人数を数える際は、女性と子供の数は含めなかったそう)。その中で、この聖句、

イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち、1クァドランスを入れた。
イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは賽銭箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。
皆は有り余る中から入れたが、このっ人は、乏しい中から自分の持っているものを全て、生活費を全部入れたのである。(マルコによる福音書12:41)

もう、イエスが女性をベタ褒め。しかも、貧しいやもめの女性(やもめってなんぞと調べたら、未亡人ということらしい。夫を亡くして独身の女性)。

 ほう。と思われた方、ちょっと待って!
まあ、イエスの言ってることは最近流行のギブあんどテイクの「ギブしなさい」っていうことなのですが、
この時代、2000年ほど前は、女性が書物に登場して良い例として書かれることは、滅多になかったはずです。いや、もう、無だったはず。それでもこうして、イエスキリストは、人の心を等しく見ることを伝えているのが、こう、私の心の奥底に響いてきたんです。

あとがき

 最後まで読んでいただいたのに結局「ほう。」な内容でごめんなさい!でも、これは私の個人的な意見というか、感想というか、なんというかお証しなので、ハレルヤー!と返してやってください。すると喜びます。
 私はキリスト者として、イエスキリストを信じて生きていくと決めましたが、最初は「アンチ・キリスト」というか、クリスチャンが大嫌いでした笑。人生何が起こるかわかりませんな〜

サポートいただけますと感謝です。ーおもちみつ