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長い線路の終点で 【アウシュビッツ(オシフィエンチム)訪問記】

*日記など普段は全く書かない私がよほどインパクトがあったのか当時のパソコンにメモしていたものをほぼそのまま転載します。(訂正・加筆あり)

*当時の私はスペインに留学中の為、英語とスペイン語が話せます。

*文章中に出てくる会話文は英語でメモしていた文章を私がなるべく読みやすく訳した日本語です。読みにくいかもしれません。

以上のことを理解していただき読んでいただけたらありがたいです。

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2011年5月27日、天気晴天

ワルシャワから始発列車に乗ってポーランドの南にある【人類の負の歴史 オシフィエンチム(アウシュビッツ)】に、行って来ました。

アウシュビッツについて、最初にその存在を私が知ったのは深夜にやっていた映画でした。

当時、ユダヤ人の友人はおろか知り合いすらもちろん一人もいなかった中学生の私、遊園地のお化け屋敷にも入れないくらいビビりだった中学生の私がテレビから流れるモノクロの映像に釘付けになった。

説明のつかない実話に引き込まれたあの日から、色んな文献も読み第二次世界大戦やユダヤ人迫害についての映画や本も、同年代の女子よりはたくさん見たし、知識として知ってたいと思います。(そのお陰かどうかはともかく世界史はの成績は良かったです。)

なんとなく、ずーっと毎日これといった事件もなく過ごしてる無意識の中で、アウシュビッツという場所は私にとって知識だけでは満足せず、自分の足で現地に行く、自分の目で見に行くべき場所だと確信していました。

ずっとそう思っていたはずだけど、今回初めて、チケットを買っていざ行ける事が可能になった時、日が近付くにつれて「どうしよう」とか「やっぱ誰かと一緒に行ける時に行く方が…」とか思っていました。

あそこは、けして楽しい気分で行ける場所じゃ無い、そんな事はずーっと、わかっていた。

それでも、私は今回の機会に行っておこうとポーランドに着いた26日の夕方、明朝1番のクラクフ行きの列車のチケットを買いました。

そして、これはポーランドに着いてから起きていた偶然なんですが、初めての国、英語もスペイン語もそんなに通じない国で地図も簡易なものしか無いにもかかわらず、全てが計ったかのように旅の行程がいやにスムーズにこなせていきました。

奇妙なほどに…全く知らない街なのに、進むべき道筋が見えているように街中で迷う事が無かったのです。

まるで、無駄な事に気を取られずにすべてを見ておきなさい。と、言われてる気がしました。

アウシュビッツのある街までの道のりは、ワルシャワからまず列車で3時間。そしてクラクフと言う街に着いたらそこからはバスか電車で2時間程かかります。

私はタイミング良く来たバスにしました。

*ちなみに2011年当時の情報ですがバスは1時間に1本しか無かったので行く方はお気をつけて。

片道だけで5時間越えの結構な旅でした。

そして、この2度ある乗換えの乗り継ぎ時間ですが、私行きも帰りもほんとに待たず、むしろ私が乗ったら発車するくらいの神がかったタイミングでした。

異変を感じたのはスムーズ過ぎる乗換えをこなし、バスに乗って1時間半も過ぎた頃でした。

気付けば私の手足は、とても冷え切っていました。

ちなみに5月のポーランドは暖かかったです。

ぜんぜん寒くない。

けど、私は真冬の様に冷え切っていました。

アウシュビッツに着いてバスを降り外に出て太陽は丁度お昼で一番高い位置、そして日差しは強いハズ(周りの人はタンクトップ姿の人とかもいたくらい)なのに、ひとり凍えている私。

カーディガンとストールを体に巻き付けて寒気をごまかし、個人参加者向けのガイドツアー(英語)を申し込んで、ガイドさんと同じグループの人達とアウシュビッツ内を見回ってる間、きっと私は色々と考えるんだろうなとか、写真も色々と撮るんだろうなとか考えてた筈なのに気付けば私は「忘れません」「繰り返しません」「どうか安らかにお眠りください」と、声には出さずに繰り返していました。

写真は、ほとんど撮りませんでした。

と、言うより撮る気が起きなかったんだと思います。

ちなみに27日の朝、寝ぼけながら私が無意識に選んで着た服は全身真っ黒。

他のグループに居た某国の人がはしゃぎながら要所要所で両手を合わせていた私を写真に撮っていたのには気付いていました。

ガイドさんが窘めてくれたからいいけど、こんな所でみっともないな、マナーが無いなと思いました。

アウシュビッツ内にある元囚人達の展示物は何部屋かに分かれていて、最初に展示されていたのはおびただしい量の髪の毛でした。およそ7トンもの量、主に女性の長い髪の毛は刈り取られた後、織られて敷物などに加工されていたそうです。

そして次に見たのは、これらを奪われたユダヤ人たちの向う場所は一か所だけだったであろう、眼鏡に義足、杖や松葉杖。

彼らにとって生きる為に欠かせなかったハズの、体の一部だったモノ。

一度も水の出た事の無いシャワー室と呼ばれる地下の部屋で多くの尊い命を奪った毒ガス【チクロンB】の空き缶も沢山積んであり、その横にはガス室の模型。

さらには靴や、名前と生年月日そして国籍を大きく書かされたカバン(アンネの日記の著者アンネフランクの姉のモノと言われているカバンもありました)そして、新たな土地で生活するために持って来た鍋など調理器具の山。

殆どのユダヤ人達が、アウシュビッツに連れて来られる時にこれ等の全てを永久に手放すことになるとは誰も思って無かったはずのモノたち。

子供の持ち物だったであろう壊れた人形やおもちゃも展示してあり、壁に並んだ犠牲者達の写真、番号が振ってあり5ケタまでは確認しました。

ツアーの最後には多くの遺体を焼いた窯も見ました。

1時間と少しほどでアウシュビッツ内の見学ツアーは終わりました。

その後、アウシュビッツの傍にあるビルケナウ収容所へ、アウシュビッツから無料のバスで向かいました。

ガイドさんと共にバスに乗り込みビルケナウまで行くバスの車内でガイドさんがたった1人でツアーに参加してる私に話かけてきました。

彼女が「なぜ、あなたはここに来たの?」と聞かれた時、私の口から出た答えは自分でも考えた事の無い言葉でした。

「私はあのgenocideが本当にあった事なのか、自分の目で確認したかったんだと思います。今日、ここに来るまで私はどこかで嘘であってほしいと思ってたと思います。」

そう答えた私にガイドさんは「真実よ、とても残念だけど。彼らの犠牲を無碍にしない為に後世に伝え続けて二度とこのようなことが起きないようにする事、冥福を祈り続ける事が今の私たちがすべき事」と言いました。

私がアウシュビッツ内でひたすら繰り返した。

「忘れません」
「繰り返しません」
「どうか安らかにお眠りください」

そのたった3つの事しか、今を生きている人間には出来ない。

けど、人間は忘れる生き物だから時には意識して思い返さないといつか消えてしまう。

アウシュビッツの見学終了後、出入口の前からバスに乗って向かったビルケナウ収容所には10分もかからず到着しました。

まず、到着して驚いたのはその敷地のとてつもない広さ。およそ175ヘクタールあるそうです。

ビルケナウ内部はナチスによって殆どのバラックが壊されていたため余計に広く感じたのかも知れません。

そして、ほぼ崩壊されたガス室の前で聞いたガイドさんの忘れられもしない言葉。

「アウシュビッツとビルケナウの唯一にして大きな違い、それはアウシュビッツは劣悪な環境の中でもまだ生きられる可能性のあった収容所でビルケナウは、ただ殺される順番が来るのを待つ為に連れて来られる収容所」

殺されるのを待つ為だけの場所。

そんなビルケナウ内に水場は無く、そして衛生環境は最低最悪で鼠の大量発生により囚人の生活環境は日々悪化の一途を辿るだけだったそうです。

1944年の8月の点呼で男女合わせて10万人に達した囚人たちを効率よく処分するためにナチスはほとんどの虐殺施設をビルケナウに設置しました。

4棟の焼却炉、ガス室に改造された農家、そして死体を焼くための野外焼却場。

そして、たくさんの映画や写真で知っている人も多いであろう有名な鉄道の引き込み線はアウシュビッツではなくビルケナウにありました。

線路の途中には多くのユダヤ人をここまで運んできたのであろう貨物列車が停車していました。

そこからまたずっと先の長い線路の終着地点には沢山のカラフルな花が飾られていました。

いろんな色の花でピースマークの形が作られてもいました。

その後ガイドツアーは終わり、私は一人で線路沿いを歩いていた所をドイツ人の家族に声をかけられました。

彼らは私が「日本人です。」と答えると、まず日本の震災へのねぎらいの言葉を掛けてくれました。

そしてお父さんが「ドイツ人はね、義務教育中に必ずアウシュビッツに来ることが義務付けられているんだ。」と教えてくれました。

私と同年代らしき息子さんと娘さんは今回で2度目の訪問だと言っていました。

私が英語(スペイン語は向こうがダメ)を話せると理解した娘さんは「ナチスの愚行をどう思った?直接的な関わりの無い日本人の君から見て彼らはやはり愚かだと思う?もし君が当事者だったら?見に来て良かったと思う?正直に答えてみて」と真剣な表情で質問して来ました。

私は「あの時代を愚行なんて、最悪だなんて決め付けたらダメだと思う。 確かに、今回私は初めてココへ来て本とかでは知り得なかった多くの事を知って、なにより先に私は悲しかった。 本当にあったんだって、ホントにホントだったんだってショックだったし落ち込んだ。 でも、あの時代の被害者の事はもちろん、加害者の事も否定をする権利なんて無いと思う。 だって人間には間違っていると分かっていても愚かだと知っていても、それしか選べない時ってのがあるのを今の私は知っているし、前よりもっと知る事が出来た今、忘れないで当時の事とか、そして私自身これからどうしていくのかをたくさん考えようって思う。 今回ココへ来て私は人間は強いと思った。 傷ついても、諦めてそれきりじゃなかったって、今ならわかる。傷つく事は、たまらなく怖いけれど、でも受け止められる。 私はこれから、あの当時のナチスが出来なかった、自分とは違ういくつもの考え方も受け入れて、わかるようになりたい。 それは簡単じゃないから、きっと時間は、かかるけれど、出来るように努力し続けたい。 そう思えただけでもここへ来てよかった。 清々しい気持ちでは無いけど私はやっぱりここへ来て良かった。」

途切れ途切れの英語で伝えた私の言葉を黙って聞いてくれていたドイツ人家族。お父さんは「君は、とても良い人達に囲まれているんだろうね。多くの人とアウシュビッツ・ナチスについて話した事があるけれど君の様な事を言う人間に会ったのは初めてだ。素晴しい考えだと思う」と言ってくれて。

そして、娘さんは「当時のナチスは、まるで一つの事しか見えていない視野の狭い人間だった、そういう輩は相手も自分の世界に引き入れようとする。そしてそれに失敗した時、他に道が作れないから全部が終わったような気になって相手を攻撃しはじめる。あの時、何が破滅への道筋を造ったかと言うとナチスには大きな力があった事、正義と正義でぶつかった時、より大きな力がある方が正義になってしまう。どちらでもないのに」と崩れたバロックを見つめながら話してくれました。

彼らと別れて、ゆっくり歩きビルケナウの入り口まで到着した。

振り返って広すぎる収容所を見渡した。

晴れ渡る空の下、緑の芝生、大きな木々が5月のさわやかな風に揺らされ柔らかな優しい音を立てていた。

延々と張り巡らされた2重の有刺鉄線の外側。

たった67年ほど前、彼らがどれだけ願っても許されなかった外側に立ち、もう1度だけ両手を合わせた。

広い広い敷地の、はるか遠くにある線路の終点は、ボヤけてよく見え無かった。

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