面倒くさい大人になりたくなかった

私は乱視だ。

乱視だし、癖毛だし、つでに猫背だ。
全体的にピシッとしていない。
何となくクネっとしている。
そのせいなのか、性根も曲がっている気がする。

そんなモンだから人から自分へ向けられた好意的な評価や、ダイレクトな好意を表現された時に素直に受け止められない自分がいる。

私に向けられた他者からの好意は曲がったレンズから乱反射されなかなか真っ直ぐに私には届かない。

具体的に言うと「この場のノリで言ってるだけだから真に受けてはいけない…」とか「お世辞だから勘違いしてはいけない」とか思ってしまうのだ。

でもよくよく考えてみれば、相手が私を持ち上げて何かメリットがあるかと言えば……特段何もないのだ。そして私自身が他者の作品や人柄を褒める時に何かメリットや見返りを求めて褒めているかと言えば全くそんな事は無く、ただ心に思った事を口にしている。

では何故、自分の場合のみこんな穿った考えになってしまうのか?

自分も信用出来ないし、他者も信用していない

もぅこれに尽きる。なんて失礼な話だろう。でも多分これが事実だ。自分の事を信用していない私にとって自分から発せられる事を他者に評価されてもその言葉すらも信用出来ない。

なんて面倒くさい大人だ。んなモン、もっと若ければまだしもこんないい年齢の大人が謙遜なんて言葉に隠れてやっていい事ではないだろう。

「絵を形にしてくれれば買いたい」

私はTwitterに自分の絵を載せる。
本当に誰のために描いた訳でもない、自分が好きで描いている教科書の端の落書きのような物だった。

ある人から「絵が好きだ」と言ってもらえた。

そこまではまぁいつも通り、私のレンズを通って乱反射し「ありがとうございます〜(お世辞だよね〜)」ぐらいだった。

問題が起こったのはその後に別の人から言われた「絵を形にして貰えれば買いたいです」という言葉だった。

ビックリして、私のレンズは粉々に割れた。
そしてダイレクトな直射光に照らされてしまった。今思えば、その他の方からも頂いていた好意でレンズには少しづつヒビが入っていたのかもしれない。

嬉しかった。

そんな言葉を貰っておいて、このまま面倒くさい大人のままで居てはいけないと思った。

人のために作る

そこから実際に買われるとかは別物として「自分が作りたい」+「人が喜んでくれそう」なモノを作りたいと思った。

少しでも手に取ってくれた人が和んだり、笑ったりできる作品が出来ればと思った。

何も考えず、ただ何と無く描いていた物が形になった時に何とも言えない達成感があった。

「この感覚を味わえただけでもぅ充分だ」と心から思った。



こんな感じの心情で3月の終わりに自分の絵を形にする経験をしたのだった。

要は褒めてもらえる言葉を少し素直に受け止められるようになったって話を長々してしまいました。

でも長々話したくなるほど私の中ではビックバンが起きていました。キッカケをくれた方には本当に感謝です。ありがとうございます。

忘れたく無いのでnoteに残しておきたいと思います。

#創作大賞2023 #エッセイ部門

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