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※無料公開【プロローグ】居心地の良かった 「ユニクロ154番店」の跡地を訪ねて

こんにちは。フリーライターの大宮冬洋です。
その昔、「振り向くな~アムロ~」とアニメの内向的な主人公を励ます美しい歌がありました。
前を向いて歩き続けないと人は充実した人生を送れない、という意味なのだと思います。
でも、変に美化したり恨みを増幅したりしなければ、たまには過去を振り返ってもいいのではないでしょうか。それでスッキリして、現在をよりよく生きられる効果もあると思うのです。
僕には、2000年の新卒でフリースブーム真っ盛りのユニクロ(ファーストリテイリング)に入社してわずか1年で逃げ出してしまった、という黒歴史があります。
余裕を持って育ててくれなかったと逆恨みしていた(今でも好きな企業ではありません)時期もありますが、辞めてから10年ぐらい経つと、最初の赴任先である「ユニクロ町田店」では優しくしてもらったことを思い出したのです。
あの記憶は本物だったのだろうか――。
町田店は2002年にスクラップされているので、当時のスタッフを様々な方法で探し出し、訪ね歩くことにしたのが2012年でした。
翌年、書籍『私たち、「ユニクロ154番店」で働いていました。』(ぱる出版)にまとめて出版。数年前に絶版になったので、出版社の許可を得て、noteで「再販」することにしました。
町田店の跡地を訪ねたシーンから始まるプロローグは無料公開します。
ロードムービーのような新感覚のビジネス書です。以下、楽しくご覧いただけると幸いです。

退職しても遊びに行った小さいながらも楽しい「わが店」

 売り場の右奥にある扉を開けると、右手のバックルームにはユニクロ商品の入ったダンボールがうず高く積まれている。左にはスタッフの休憩室。大きめのテーブルがひとつにパイプ椅子が数個、小さなテレビがひとつ。
 休憩室に入ると、4、5人のスタッフが『笑っていいとも!』を見ながらコンビニ弁当を食べている。
「あ、大宮さんだ。また来たの?」
 準社員の杉山が顔を上げ、笑いながら僕を迎え入れてくれた。僕の手にもコンビニ弁当があり、「どうもすみません。家にいても退屈なんだよ」と言いながら、もうスタッフではないのに椅子に座った──。
 2000年3月、僕はこのユニクロ町田店に新入社員として赴任した。八王子と横浜を結ぶJR横浜線の町田と長津田という2つのターミナル駅に挟まれた成瀬という小さな駅を降り、坂を下るように15分ほど北に歩く。成瀬街道に出ると右手に銀行があり、その隣に町田店を見つけることができる。
 東京都の西部地域(多摩地域)が南隣の神奈川県に食い込むように広がる町田市。人口40万人規模のこの街で最初にできたユニクロ店舗だから「町田店」と名付けられた。
 それは駅ビルや郊外の大型商業施設ではなく、ロードサイドにあった。
 レンガ造りを模した概観、古い洋画のポスターが貼ってある店内。1998年からのフリースブーム以前に作られたとんがり屋根の倉庫型店舗である。
 僕はこの旧型店舗で半年間ほど過ごし、秋には近くのユニクロ青葉台東急スクエア店に異動した。東急田園都市線青葉台駅にできた新規大型店だった。
 そして、翌年の春先に会社を辞めることにした。
 町田店を訪れるようになったのは、退職前に有休消化で2週間程ブラブラしていた時期だ。
 僕は青葉台の店に異動してからも、成瀬駅と町田店の中間地点にあるアパートに住んでいた。会社借り上げのアパートなので、辞めたらすぐにでも引き払って実家に戻るべきだったのかもしれないが、退職日ギリギリまで居座りたくなった。
 会社にささやかな嫌がらせをしたかったのではない。心身が疲れ果てていたので引越をする気力がなかったこと、実家に戻る前に少しでも長く気ままな1人暮らしを楽しみたかったこと、そして町田店のスタッフ達と離れるのが惜しくなったことが理由だったと思う。
 人生最初で最後の有給休暇は、とてつもなく気楽で退屈だった。日給は出ているので焦りはない。しかし、特にやることもない。
 午前中は10時ごろになってようやく起きて、成瀬街道近くに流れる恩田川沿いの道を疲れるまで歩く。一休みしたら同じ道をトボトボと戻ってくる。
 それでもまだ昼過ぎ。予定は何もない。
 都心まで出かけて映画を観てもいいけれど、その前に昼飯を食べよう。また町田店に遊びに行っちゃおうかな。
 社に籍はあるものの、退職を決めた人間が遊び目的で休憩室(スタッフルーム)に入るのは問題だっただろう。人のいい川上店長は戸惑いの表情を浮かべていた。
 しかし、「あんまり長居するなよ」と言うぐらいで僕を追い出すことはしなかった。わずか1年で会社を辞めることになった後輩を哀れんでいたのかもしれない。

ユニクロフロアmapCS4

ロードサイドにあったユニクロ旧型店舗。閉店10年後の姿

 ユニクロ町田店は、僕が退職した2年後にスクラップ(閉店)されたと噂で聞いていた。そのときは帰る場所のひとつを失ったような気分になったが、フリーライターとして駆け出しの時期だったこともあり、忙しさにまぎれて忘れてしまった。
 ユニクロに勤務した1年間は挫折そのものだったので、思い出したくなかったのかもしれない。
 あれから10年が経つ(※本書の元になるWEB記事は2012年に取材と執筆が行われた)。苦すぎる記憶も薄れかけた今だからこそ、ユニクロという会社を冷静に見つめ直せる気もする。そんな思いで、僕は成瀬駅に降り立った。
 この街を出たのは2001年の春だから、10年以上の歳月が流れている。
 駅前はほとんど変化がない。相模鉄道系列のスーパーマーケット、そうてつローゼンがあり、団地のようなマンションが並んでいる。ええっと、町田店はどっちだっけ?
 かつて住んでいた成瀬の住宅街を1時間近くもさまよい、ようやく成瀬街道に出た。あ、この焼肉チェーンの安楽亭は覚えているぞ。確か、この先に八千代銀行があって……。あった、あった!
 成瀬高校と成瀬街道に挟まれた中州のような敷地に、八千代銀行とユニクロ町田店は並んでいた。閉店後、レジ内のお金を八千代銀行の夜間金庫に運んだ記憶がよみがえる。
 町田店は2002年にスクラップされ、跡地はスポーツショップのビクトリアが入ったと聞いていた。跡形もなくなっているのだろうと覚悟していたら、懐かしいレンガ作り風の外壁ととんがり屋根が現れた。
 あれ? そのまま残っている! もしかして町田店が復活したの?
 一瞬、時間が巻き戻ったような錯覚を覚えた。この店舗の周りをほうきとチリトリで掃除したこともある。小さな駐車場も含めて、何も変わっていない。
 しかし、店の正面だけが大きく違う。白抜きの真っ赤な看板で「増改築専門店 ナカヤマ」となっているのだ。
 調べてみると埼玉県上尾(あげお)市に本拠地を置く住宅リフォーム会社で、支店のショールームを全国展開している。
 しかも徹底したローコスト経営。どこかユニクロと似ている。
 店内に入ってみると、鉄骨などがむき出しの倉庫のような内装はほぼそのまま。ビクトリアもナカヤマも居抜き(他社が撤退した店舗を壊さずに利用して低コストで新規出店すること)で入っていたのだ。実にたくましい。まるで旧日本軍の建物をそのまま使用しているアジア諸国のようだ。
「昔、この建物に入っていたユニクロで働いていたんですよ」
 僕は興奮気味に女性店員に話しかけていた。平日は1人で接客をしているらしく、少し疲れた表情の女性からは「はあ、そうですか」と戸惑った返事が戻ってきただけだった。
 店に長居するわけにもいかず、成瀬街道を挟んで向かい側にあるファミリーレストラン・ジョリーパスタに入った。この店も昔のままだ。

ユニクロ周辺地図CS4

ユニクロ町田店は好きだった。でも会社には愛がない

 ジョリーパスタで遅い昼食をとりながら、僕は不思議な感慨にふけった。町田店は形だけを残し、中身がまったく違っていた。嬉しいようで余計に喪失感が募る気もする。
 ユニクロ店舗には開店順に通し番号が付けられる。町田店は154番目の店だった。オープンしたのは1994年。東京都第1号店である八王子楢原(ならはら)店(2003年閉店)が開店し、ユニクロを展開する株式会社ファーストリテイリングが広島証券取引所に上場(現在は東証1部上場)した同年である。
 2012年11月時点で、ユニクロの国内店舗は845店舗に達する。海外の店舗やジーユー、セオリーなどのグループ店舗も含めると2000店舗を超える。
 154番目にできた町田店がいかに初期の店舗だったのかがわかる。
 そのユニクロを一気に全国区の有名ブランドへと押し上げるきっかけは、1998年に開店した都心型店舗の原宿店と、同時期に始まったフリースブームだった。
 町田店にも客が押し寄せ、十数台で埋まってしまう小さな駐車場前の道路では「ユニクロ渋滞」が起きた。
 しかし、ブーム以前から働いていた準社員(パート社員)たちが支える町田店では、田舎の個人商店のようなのんびりした空気が漂っていた。そこにはユニクロの業務にまったく適性のない社員だった僕ですら居場所があった。
 僕はユニクロという会社に恨みはない。理不尽な仕打ちを受けた記憶はないからだ。明らかに小売業に向いていない僕を甘やかさず、早めに見切りをつけさせてくれたことには感謝している。
 だからといって応援したいとは思わない。お金がない時期はユニクロ商品を買うこともあったが、そろそろ卒業するつもりで処分を進めている。買った店にも服にも愛着が持てないので、結局のところ「安物買いの銭失い」になってしまうからだ。
 今後は、人や場所、商品に対して愛情を込めて向き合っている会社や個人から購入して、長く大事に使いたい。
 僕と同じようにこの古巣を冷ややかに見ているユニクロ卒業生は少なくないと思う。
 それなのにユニクロを忘れ去ることができないのは、会社にではなく町田店に愛された記憶があるからだ。空回りばかりしていた僕を受け入れ、フォローしてくれた。商品整理からスタッフの作業スケジュール作りまで、すべてを辛抱強く教えてくれた。あまり身につかなかったけれど……。
 半年後に異動した新店では、店長やSVや先輩社員から、「お前は半年間何を学んできたんだ! 甘やかされすぎだ」と追い詰められた。きっと町田店以外に赴任していたら半年以内に辞めていたと思う。
 どうせ辞めるなら早いほうが個人にも会社にもいいというのは、効率と金銭面での成功だけを重視する人の意見に過ぎない。やる気が空回ってしまうダメ社員でも、他人を攻撃したりしない限りは、一定の居場所が与えられるべきだと僕は思う。それができない会社は、どんなに利益を上げていても、「人間の組織」としての資格がない。
 だからこそ、町田店のことが気になる。仕事はしっかりと真面目にやるけれど、休憩中はみんな仲が良かった。いじめや派閥などはなかった。
 スクラップと同時に全員がユニクロを離れたという。
 あの優しい人たちは今、どうしているのだろう? 当時、どんなことを考え、何を支えにして働いていたのか。現在のユニクロをどう思っているのだろうか。今でもユニクロで服を買ったりしてる?
 かつて町田店で一緒に働いた仲間を1人ずつ訪ね歩くこのセンチメンタルな旅は、世界各地で快進撃を続けるユニクロへのささやかなアンチテーゼであると同時に、懐かしい場所を永遠に失ってしまった僕自身への鎮魂歌(レクイエム)となるだろう。

主要登場人物

年表

名称未設定-2

※初出:大宮冬洋『私たち「ユニクロ154番店」で働いていました。』(ぱる出版、2013年刊)。出版社の快諾を得て、誤字脱字などを修正のうえ、noteで再び公開することにしました。

※続きはnote有料マガジン(1,000円)で公開中です

※1~6章は各200円で個別購入可能です


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