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空気を読む事の良し悪し。

みなさん、ごきげんよう。

地上に楽園を創るプロジェクトをしています。アウローラ魔法の学校です。

ようこそ!

私は宇真(うま)です。よろしくお願いします。

日本人には馴染みのある【空気を読む】というフレーズ。

そもそも【空気を読む】とは、何を意味するのだろうか?

その場や状況の状態を感じ取って、調和的に反応する。というのが語源の意味に近いであろう。

集団や組織の中で、協調性や円滑さを生み出すには、良い言葉ではある。


しかし、どちらかというと「右向け右」「左向け左」「赤信号みんなで渡れば怖く無い」?!。。。かの如く、その場の他者に合わせて同じ行為をする事の様に感じてしまうのは、私だけだろうか?

それが、なんとなく誰の意志なのかも不明で、なんとなくそっちの方向的に、、、。

要するに曖昧な方向性で皆んなで同調している事も少なくない。

そのなんとなくが、なんとなくの倫理観で、そっちの方が正しい様な意味合いを包括している風〜な、状況もある。


それは、本質の掴みどころが分かり辛い。確信的な事情はほぼ無い。


上げ底された綺麗な箱の中身は空と同様。

さらには、その綺麗な空箱を、【何も意味が無いことは無い】と価値をこじつけている様も見かける。



結局のところ【空気を読む】とは、どこに至ると良い具合に言葉の本質をついた肯定的な状況に至れるのだろうか?


経緯と例え話

昨日は初めて夫に付いて行って、一緒にワークアウト(筋トレ)した。私はサウナに入りたかったんだけど、サウナに入るには筋トレもセットだそうで(笑。


緊急事態宣言で、スポーツジムに行けなくなった人は多い。


近所の友人と夫は、共同作業で友人宅のガレージをワークアウトできる仕様に改装した。

夫は自作のサウナを友人宅のガレージ横に置いて、友人がサウナをいつでも使える事で、ガレージの設備を使わせて頂けるという条件交換的な合意が成立したのです。


アメリカ人の夫の交友関係を見ていると、金銭ではなく条件交換的に成り立っている事を多々見受ける。

夫は特に立ち居振る舞いが上手なのかもしれないが、ミネソタ州は割と本音を言わないのも一理ある様で、アメリカでも【空気を読む】状況には遭遇する。



お呼ばれしても、来客があっても、その場の状況で、物事の経緯が変わるのは、それこそ【空気を読む】が成り立っているのです。


ただ、アメリカ人の場合は、各自(大人にも子供にも)に意見を聞いている状況から、会談を繰り返して糸口を探り出しているようにも感じる。


ほぼ、すぐには答えが出ないので、その為に数時間が立っている事もあるので、忍耐力が自然と培える。



お互いに考える間(空間)も生じている。

相手を伺う間(空気)とはちょっと事情が違う。


日本では、
学校や社会的事情ではなく、
私用の時間に子供の希望に合わせて生活している人は、
どれだけいるだろうか?


私は集団行動の際には、空気を読む事で場の状況に合わせてきた経験は多々ある。それどころか、集団行動といえば、ほぼその様に場に合わせて付いてきた。


良くあるのに、「何食べたい?」といった状況は分かりやすいですね。


そこで、現在地の周辺にある飲食店から選ぶか、食べたい物を提案してから周辺で探すか、または空気という架空のボスに付いていくか。。。


その集団行動の中に立場の強弱があるとなおさら、【空気を読む】というのが【郷に入ったら郷に従う】に変わっている事もある。


さらには、【郷に入ったら郷に従う】の類語に、【長いものには巻かれろ】や【嘘も方便】とある様に、如何様にも肯定的な捉え方はあるが、実際にその場で意思表示ができないものとしては、【井の中の蛙大海を知らず】となるか、または窮屈なたらい回しの渦中で渦に巻かれていくかとなる訳です。


いずれの立場にしても、自分の意志があるか否か、そもそも従うのが意志と化しているか、などで各自にかかるストレスは異なる。


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今回、夫について行ってガレージ・ジムでウェイト・トレーニング(加圧トレーニング的な筋トレ)をするのに、ダンベルを使うに至り、私は初めての経験に戸惑った。



何に戸惑ったのかというと、先ず流れがわからない。

どうやら順繰りにダンベルのバーを持ち上げる。

身体の大きさ・負荷となる荷重が人によって異なるのは、見てもわかる。

しかし、夫も友人も体格が近いので、私が加わると全く重さの違うダンベルを入れ替えないと、彼らのサイクルには加われない。


そこで、「君もダンベルを持ちあげるエクササイズをする?」と言われた私の内心で起こった反射的な思考に、私はそのサイクルから抜けようとしていた。



今まで【空気を読む】なのか、【郷に入ったら郷に従う】なのか、【長いものには巻かれろ】なのか、自分の気持ちに【嘘も方便】なのかの反応が潜在意識に染み付いていた故に、【私の為に】【私に合わせて】【私の意志を尊重してくれる】を実体験・実体感しながら対応の仕方を育んでいたのです。


実際にはトレーニングのサイクルに加わらないと、私は寒い中で待つ以外に大した事はできない、とも思い込んでいた。


サイクルに入って挑戦してみると、私の順番が来れば私に合うダンベルに入れ替えてくれる。

待っている間には、腕立て伏せしたり、ストレッチしたりと各々でエクササイズをしている。


自主性とお互いを尊重する事が自然と有るから、わざわざ状況や事の流れを説明してきたり、どうするのかの指示を出したりして来ないんだろう。


自分が自分であるというのは、自分自身の意志・思考(この様にしたい!この様にありたい!好き!嫌い!など)をしっかりと抱いていなければ、それは起こりえない。


その在りたい自分・成りたい自分がなければ、【相手にされたくないことはしては成らない】【相手にされたいことをする】という基準だって持てない。


もしそれらの基準を、外的情報・外的要素から収集した事情で判断をしているのであれば、一歩引いて俯瞰してみるのも良い。


それは良い瞑想の課題になる。


選ぶなら、爽やかに心地よい澄み渡った空気に包まれていたいから。



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