グリッチ (5)

 俺たちは、温泉リゾートホテルの豪華なタイル貼りのロビーエリアを抜け、無人のフロントデスク前を通り過ぎ、外に出て、元は庭園だったと思われる菜園を抜け、海辺から続く遊歩道を陸側に進み、宿泊棟脇の井戸端に来た。望月が、髭を当たってやると言ってくれたのだ。

 髪と髭は箱根の山中でも、鋏で切っていた。洗顔や洗髪は雨水でしていたから、清潔に保つにはできるだけ短くしなければならなかったが、カミソリは無かったので、常に一~二センチ伸びていた。望月は、少量の井戸水とシャンプーと布で、手際良く俺の頭髪を洗い、髭をカミソリで剃ってくれた。井戸端には鏡がなく、俺は自分では剃れなかったからだ。望月の慣れた手つきに驚いた。

「お前、この島で床屋になったのか」

「ばーか、俺が床屋になるわけないだろ。病人と怪我人の世話は数えきれないほどしたからさ。お前のその頭も身体も、一昨日、一度拭いてやったんだぞ。覚えてないだろ」

覚えていなかった。熱が下がり目を覚ましたときに、なぜか清潔なパジャマを着ていて臭くもなかったのは、望月のおかげだったのだ。俺は慌てて望月に丁重な礼を言った。

 望月は、洗髪に使った布にカミソリを包み、

「これはお前のだから取っておけ。慣れれば鏡なんぞなくても剃れるようになる」

と言った。

「それにお前のその顔は、今、鏡で見ない方がいい」

と言い、望月は笑い出した。

「なんだ、何がそんなに可笑しいんだ」

と聞いてもなかなか、教えてくれなかったが、ひとしきり笑った後、

「顔が半分真っ白」

と言った。剃らなければ良かったと、後悔しても遅かった。

 この島には、文明の利器と古代からの生活の知恵が混在していた。プラスチック製の使い捨てのカミソリに、シェービングクリームや石けんやシャンプーがあり、井戸水を木の桶に汲んで、鏡を見ずに髭を剃る。木の桶の隣にバケツも並んでいる。文明の利器は、島に元々あったものに加え、本土から集めて来たものだという。ホテルだから、鏡のある浴室も各部屋に付いているが、水道は涸れていて排水管の保守をする手段もないので、皆、部屋の浴室は使わず井戸端で洗面し、外に作られた落とし便所で用を足す。トイレットペーパーは無く、便所には水をいれたやかんが置いてあり、水でゆすいだ後、尻を振って水を切る方式だ。用を足した後に手を洗うための水を入れたバケツがトイレの外に置いてあり、柄杓ですくった水を手に掛けて洗うようになっている。

 ホテルの建物に近い四つの井戸を、男井戸、女井戸、調理用、洗濯用と分けて使っている。女井戸は、当初はプラスチックの板で目隠ししていたが、雨風で壊れた後はプラスチックが手に入らず、草や小枝を編んだ筵の目隠しに交換されたという。夏場は海水浴を風呂代わりにし、冬は薪で暖めた湯を各人桶一杯もらい、身体を拭く。冬期のみ、月一度くらい、五右衛門風呂に入る順番が来ると、望月が説明してくれた。

 こういう話を聞けば、箱根の木の上で過ごした日々より、百倍も人間らしい暮らしができそうだが、それでも、戦争になる前に俺たちが慣れ親しんだ便利な生活からは、程遠いものだった。

 こういう事態になった元凶を、俺たちは、便宜上、蠍と呼ぶが、奴らは蠍ではない。今のこの事態を、戦争と言うが、これは戦争でもない。

 

 三年前のゴールデンウィーク、巨大な未知の新生物が大量発生し、人類を餌に喰い始めた。未知の生物と言えば、深海や高山など人の立ち入らないところや、顕微鏡下の世界で発見されるものと思っていたが、俺たちが蠍と呼ぶ巨大新生物は、人間の生息域に、突如、大発生した。その発生源は特定されていないが、関東では、富士の麓の樹海だったとも言われている。真偽は定かではないが、発生直後から、樹海に程近い甲府に居た俺の家族が、固定電話にも携帯電話にも全く出なくなったことから、樹海発生源説が正しいかもしれないとは思う。

 蠍という通名が付いたのは、六つ足でするすると這うように胴体を運び、毒針で刺すその動き方が、なんとなく蠍を髣髴とさせるからだ。しかし、本物の蠍は、八本足で頭の脇に一対の鋏を持ち、尾の先に毒針が付いている。解剖学的に構造が全く違うのだから、俺たちが蠍と呼ぶ新生物は蠍ではない。

 にもかかわらず蠍と呼ばれている奴らは、足が六本で、体節があることから、昆虫と同じ節足動物ということもできるのかもしれないが、昆虫のような頭や顔らしいものが無い。もしかしたら、肉眼で確認できない大きさの頭が付いているのかもしれないが、一見して、胴体しかないように見える。全長一メートルほどの肉厚な胴には体毛はなく、甲虫に似た光沢のある頑丈な外骨格に覆われ、一メートル弱の長さの三対の脚が生えていて、その先端には鋭い鉤爪が付いている。頭が生えるべき位置から二メートルくらいの長い触肢が生えている。これがもしかしたら奴らの頭部なのかも知れず、そうであれば、蠍は双頭の節足動物と言うこともできる。俺たち人間は、この二本の長い肢をやはり便宜上、「触肢」と呼んでいるが、実際、触角の機能があるのかどうかは誰も知らない。蠍は、右の触肢の先端に付いている毒針で餌食に神経毒を注入し、もう一方の触肢の先端についている吸い針を餌食の身体に刺し、体液を吸う。その繁殖の仕組みや、生物種としての起源など、誰も知らない。

 地球外生物だと言う者も居る。俺も、そうかもしれないと思う。どこかの国が開発した無差別大量破壊兵器だと言う者も居るが、俺は、それは違うと思う。あるいは、俺たちがこれまでその存在を知らなかった地中生物が、ある日突然、地上に出て来たのだと言う者もいる。世界各地で発生したことから、その可能性もあると思う。

 もちろん、これは戦争ではない。なぜなら、蠍は別に、俺たちに戦争を仕掛けたつもりはないからだ。蠍は本能に任せて、捕食するだけだ。餌にされる人間達は、領土を侵略されたと感じ、反撃しなければならないと感じ、これは戦争だと感じるが、本質的にこれは戦争ではない。ハエが大量発生したからと言って、「ハエ戦争」とは言わないだろう。従って「蠍戦争」という言い方は根本的に間違っているのだが、この言い方が定着してしまったのだから、仕方ない。

 というわけで、俺たちは、「蠍戦争」の時代を生き延びているというのが、今の現実だ。信じられないと言えば信じられないが、地球の正常な営みなのかもしれない。ホモ・サピエンスの数が増え過ぎたとなれば、それを捕食する天敵が大発生し、増え過ぎた種の個体数を激減させ、生態系の均衡を回復するということも、あるのかもしれない。人間以外の生物種には当たり前に起こることが、ある日、人類にも起きただけなのかもしれない。

 山梨県で三年前の五月に蠍が大量発生した時、初めは誰もが局地的な現象だと思い込んだ。しかし二日もしないうちに、全国、そして世界同時に大発生している様子が報道された。報道という活動そのものが壊滅するまでの間に、俺たちは、日本と世界各地のニュースをチェックし、日に日に失望の度を強めた。大災害が起これば、被災地の外からの救援を期待するのが普通だが、今回ばかりは、どこからも救援は来ないことが明らかになったからだ。基地の米軍は、燃料が尽きる前に、米国本土防衛に戻って行き、日本から米軍が消えた。基地の歴史がこういう形で幕を閉じるとは、一体誰が予想しただろう。

 その後のアメリカからのニュースで、アメリカは蠍に苦戦していることがわかった。アメリカは、洗練された近代兵器を持ち、市中に拳銃や小銃が溢れているが、白兵戦に適した刀剣を大量に持っていなかったからだ。火炎放射器や大砲が使えるうちは勝ち戦もあったらしいが、燃料と砲弾が尽きても、蠍の発生は止まらなかった。拳銃や小銃の弾では、何十発も撃ち込まなければ蠍は死なず、銃を撃っているうちにこちらが喰われてしまう。六肢のうちの三肢を切り落とせば、蠍はその場に立ち往生し、殺さなくてもいずれ自然に飢死する。あるいは、二本の触肢を切り落とせば、走り回ることはできても人間を捕食する手段がなくなり、やはり、いずれは餓死するはずだ。これが一番効率的な闘い方だが、それには刃渡りの長い刀剣が必要だ。 

 主に市街地でのゲリラ戦となる蠍戦争に強かったのは、マシェティや中国刀を持つアフリカや中東や中央アジアの無法地帯だった。外国の紛争地域では、海賊、盗賊、民兵や自警団だった者が生き残っているだろう。日本では、日本刀を持つ者が生き残った。つまり、組織犯罪関係者が俄然強い。この島のように、町の剣道場に避難した一般市民が集落を作って生き延びているというのは、実に珍しい例に違いなかった。

 

 蠍は、幅数メートルの群を成し、まるで溶岩流のように地表を縦横無尽に移動した。その流れに巻き込まれ、逃げ損ねた人間は、蠍の餌になった。市街地でも山里でも、蠍の行進が通過した後には、体液を吸われた人間のひからびた抜け殻が残り、もはや、埋葬も火葬も不可能だったが、亡骸には腐敗に必要な水分が残っていないため、これは衛生上の問題ではなく、残された者の心理的な問題だった。しかし、慣れとは恐ろしいもので、やがて皆、人体の抜け殻を見ても、何も感じないようになった。三年前の自分には考えられないことだ。

 蠍から逃げ回っているうちに、その習性を利用して上手く逃げれば、逃げ切れることがわかってきた。全長三メートルに及ぶ蠍は体重が重く、木には登れないが、頑丈な人工構造物には楽々と登る。屋根に逃げても高いビルに居ても襲われるが、蠍の触肢が届かない高さの樹に登りさえすれば逃げられるのだ。蠍の巨体は狭いところには入れない。建物でも、洞窟でも、蠍が入れない狭い空間を見つけて隠れれば、逃れることができる。蠍は泳がないから、海や湖や川に入れば、逃げ切れる。但し、水深の浅い小川や池程度ではだめだ。他のすべての動物同様、蠍も火には弱く、ガス管の破裂などで火が出た所では、蠍も人間も一様に犠牲になった。蠍は人間と同じ昼行性で、昼間に動き回る。ということは、人間が夜行性になれば、ある程度安全に暮らせるということだったが、文明が寸断された後に夜行性になるためには、何らかの燈火が必要で、懐中電灯の電池が消耗した後は、俺たちもやはり命がけで昼間に行動するしかなくなった。

 こういうことはすべて、蠍から逃げ回る経験を通してわかってきたことで、初めは誰も知らなかったから、数限りない犠牲者が出た。最初の一年を逃げ切った人間が、やがて身を寄せ合い、徒党を組み、集落を作り、そこから先は蠍との闘いと飢餓との闘いと人間同士の小競り合いという、三重苦になった。蠍から逃げおおせても、飲み食いしなければ、人間はいずれ死ぬ。食糧と水を調達するためには、飢えた蠍が徘徊する市街や山野に、飢えた人間も出かけて行かなければならなかった。そうすると、同様に飢えた人間に出くわし、限られた食料を奪い合うことになる。

 俺と連れの四人は、穴蔵に隠れ、あるいは木に登り、蠍の行進をやり過ごした後に、人気の絶えた街や里を歩き回り、使える生活用品や食品を片端からかき集めて生き延びた。所有者に対価を払わず失敬したという意味で、略奪だが、皆、ひからびた遺体になって転がっているのだから、もう、誰も支払いなど求めてはいなかった。

 累々たる死者を横目に、医薬品や日用品や保存食や飲料を集め、蠍の入り込めない狭い空間にたてこもり、備蓄が尽きるまで外に出なかった。

 俺の仲間は、蠍大発生の当日、箱根をハイキングしていたが、元はといえば京都の大学近くの道場の門下生だった。俺たちが真剣を手に入れられたのは、山から下りて蠍大発生の惨事を知った数日後、御殿場の町を彷徨っていて、宝刀店を偶然見つけたからだ。店主か店番だったらしい男は、店の前の路上で事切れていた。ごたごたした安い土産物が散乱した店の奥に、数十万円の現代刀から数百万円以上もする古刀が数十本あった。俺たちは刀剣を次々と手に取り、茎を検める暇を惜しんで、重さや持ちやすさのみを基準に、大刀、脇差、短刀を選び、身に着けた。あれはれっきとした略奪行為だったが、あの時、刀を手に入れていなければ、その後三年も生き延びたはずがない。

 俺はそれまで、真剣を見せてもらったことはあっても、扱ったことはなかった。剣道など習っていても、今の時代に真剣勝負で斬り合うことはあり得ない。真剣を試合に使った試しも、人を斬った試しもなかったから、店内で「刀剣お手入れ説明書」を読み、手入れに必要と思われた様々な備品も探し出して盗み、真剣の取り扱いに初めて取り組んだのだった。

 拵と共に盗んだ白鞘は山中を逃げ回るうちに落としてしまったが、目釘抜き、打粉、丁字油は一袋に入れて肌身離さず背負っていたので、この島にも持って来たはずだ。(ここまで話したところで、お前の持ち物はまとめて保管してあるから心配するな、と望月が言った。)

 俺たちは、時々蠍と遭遇しながら逃げ回り、一年以上、市街地に隠れていた。初めは、家族が帰省していた甲府に戻ろうと考え、徒歩で戻る経路を地図で確認したりしたが、蠍が出たら、方角など関係なく逃げ回って隠れることしかできなかった。自分の行きたい方向に進むということは、ままならず、月日が経つにつれ、自分がどこのどの町にいるかさえわからなくなり、とにかく一日生き延びられれば良しとするという、その日暮らしになった。

 市街地は、物資を調達しやすく、また、人間が管理しなくても、勝手に機能し続けているものがあり、結構、便利だった。水栓を捻ると水道管の中に残っている水が出て来たり、自家発電装置があるらしく、スイッチを押すとなぜか電灯が点く家があったりした。そういう家を俺たちはお宝物件と呼び、使えなくなるまで占拠した。

 死者の数があまりにも多かったから、米は不足しなかった。どの家にも米の備蓄があり、それを集めさえすればよかったからだ。問題は調理だった。初めのうちこそ、比較的きれいな水を手に入れ、まだ機能していたガス台や、空き家から失敬した卓上コンロや、それも無くなった後には木製家具を燃料として、米を炊くことができた。が、次第に、燃料にするものが少なくなり、きれいな水が手に入らなくなると、米はもうそのまましゃぶって喰うしかなくなった。

 俺たちの装束も変わった。服はシャツでもジーパンでも何でも良かったが、刀を持ち運ぶために何らかの帯かベルトを身につけなければならなかった。皮のベルトに刀を差す輪を縫い付けたり、小刀や匕首を背負って運ぶための帯を作り、肩からたすきに掛けたりした。縫い物はすべて、食糧を調達した後の篭城中に、民家で見つけた衣服から取った布と裁縫道具を使って手縫いした。縫い物など、小学校の家庭科で嫌々やらされて以来だったが、意外なところで役に立ったものだ。

 最初の冬を越した頃、街では、蠍の襲撃よりも、人間同士の縄張り争いや奪い合いに巻き込まれることが多くなった。俺たちは剣の腕を重宝がられ、やくざ者の一集団に吸収されたが、そこで蠍よりも凶悪な人間に仲間の一人を殺され、そいつらと斬り合って逃げ出した。それが一昨年の秋のことだった。

 俺たちは、街を逃れて放浪し、井戸のある無人の山里を発見した。そこで井戸水と雨水を水源に、樹上生活を始めた。井戸を使う時と、食糧を採集調理する時以外、できるだけ木の上に居た。集落で集めたバケツや桶を高い枝に掛けて雨水や夜露朝露を備蓄し、蠍が周囲に居ないことを確認して、民家から集めた米を炊いては、樹の枝の間に張った網に風呂敷を広げて干し飯にした。米を調理できない時は、そのまましゃぶったり、雨水でふやかしたりして食べた。

 米以外の食べ物も、出来る限り乾物にして保存した。樹上で二回目の冬をどうやって越すことができたのか、自分でも不思議だった。防寒具は、山里の住宅から取って来たものがあり、何枚も重ね着すれば寒さは防げたが、米は一粒もなくなり、秋に集めて備蓄していたどんぐりや栗や柿や木の皮や昆虫や幼虫を食べた。エネルギーを消費しないように、木の上に居るまま食べられるものを、何でも口に入れ、じっとしていた。食べても大丈夫なものかどうかは、食べてみて知るしかなかった。俺は幸い、腹を壊しにくい体質らしいが、食当たりで命を落とした仲間が一人居た。

 時折、街を占拠している集団から逃げてきた人間が、仲間に加わった。だから、入れ替わりで合計十一人の仲間を持ったが、飢えや病気や、蠍との戦闘で、皆、死んだ。この三年間に起きたことはもう、忘れられるものなら忘れてしまいたかった。

 そんなことを、俺は、かいつまんで望月に話したが、死んだ仲間の人数や名前や、彼らがどのように死んだかなどは、一切、話さなかった。話そうとすると息苦しくなるからだ。だから、食糧と蠍の習性について話した。

 望月は、やはり戦争中の会話の作法を守り、人の生死に関わることは聞かなかった。俺が話し終えてから、

「いやあ、よく、本土で三年生き延びたなあ。俺たちは、早くに海に逃げてこの島に着いたから、割と早い時期から楽をさせてもらったよ。まあそれも、深雪さんのおかげなんだ」

と言った。

(つづく)

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