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押してダメなら引いてみようかな

定期的に書き続けなくちゃねと思ってはいるものの、投稿ページを広げてみたら、「うーーーん、なにを書こうかなぁ」と手が止まってしまうことがほとんど。

上向きに精神があっても、身体はついていかないのが現実なわけで、とはいえ、そんな自分を嘆いているだけでは身体が上に向かっていかないのも事実なわけで。できない自分にクヨクヨしているだけではダメなのだ。

書こうとすると、書けない。あ、押しが強いと、なかなか相手にも振り向いてもらえない、恋愛のあれこれに少し似ているような・・・。ならば、押してダメなら引いてみろ! では、書くことにおける「引く」とはなんなのか。

書こうとするときに「うまく」「きれいに」書こうとしてするのが「押す」ことだとすれば、「下手でもいいから」「とにかく吐き出す」を起点にして書こうとすることが「引く」ことなのかもしれない。

あるいは、そもそも「書く」ことをてんで気にしないで、仕事でも遊びでも他のことに手をつけてみる。その体験のなかで、「わ、これは自分のためにも書き残しておきたい!」という気づきや学びがあって、いつの間にか筆を執っていた・・・という”情動に駆られる型”で書くことも「引く」ことなのか。

一つ言えるのは、書くことを「意識しちゃすぎない」ってことだろう。意識すればするほどに緊張して、頭は強張り、のびのびと、たのしく書けない。

仕事じゃなければさ、「書く」ってのは自己表現の一つなわけで、それを縛り付けていいものなんて何もないわけだから、だったら、リラックスして書けたほうがいいに決まってる。

心地よいものの連続と、表現の積み重ねが、その人の「らしさ」とか「っぽさ」をかたちづくっていくのだと思う。

究極、「書く」ことだけなく「続ける」ということさえも意識せず、おそらく「意識せず」というのは「目的にせず」ということで、他の物事に向かっているときに生まれる思考や感情を(内/外向け問わずに)記録していくための手段としての「書く」が必要なのかもしれないなぁ。

なんやかんやあっても、結果、書き続けられればいいのだ。だから、「書く」との向き合い方をちょっとだけ変えてみるとかね。

そんなことを、冒頭の「うーーーん、なにを書こうかなぁ」という状態からノープランで書きはじめてはみたけど、書き終わってみたら「ああ、やっぱ、こんなもんだな、ダメだは、おれ」と感じて、しょんぼりしたりもする。

まあ、「今日の自分のできなさ」も含めた記録と思えば、書き残したことは、あっぱれなことだ。よい思い出になるかもな。と、一歩「引い」て評価し、自分を慰めることで、明日の「書く」にエールを送っておこうか。

がんばらなくてもいいけど、がんばれ、おれ。

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