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どこ、だれ、なに、すべて移ろってゆくから。

ギリギリまでも物事を決めたくない性格だ。というか、優柔不断だから決められらない。なるべく広げられる選択肢は広げておきたい。閉じていくときにバシっと決められりゃあまあそれでいい。つらいのは目をやれば届くかもしれない可能性を閉じてしまうこと。

とはいえ、「決める」ためには「決めあぐねていること」をまず見つけておかないといけない。裏を返せば、いろいろ決めることがあったとしても優先順位の高い、最初の1ピースがなんなのかを見極めること。そいつが決まれば、あとのことがスイスイと決められるようなピースは必ずある。

大きな、だけど根源的な問いにはなるけど、「どこで、だれと、なにをして、暮らしていくか」は迷ったときに立ち戻りたい。人によっては、「地元だから」「好きな土地だから」みたく「どこで」が大事かもしれないし、「子どもと」「パートナーと」「いいご近所さんと」みたく「だれと」が大事かもしれないし、「仕事のために」「趣味のために」のように「なにをして(もくしは、なにをしないために)」が大事かもしれなく、その優先順位は固定化できるものでもない。

ぼく自身のことでいえば、ここ数年は「鳥取」と「東京」の二ヶ所に意味をつよく感じており「どこで」が一番つよかった。水木しげるが育った鳥取、水木しげるが暮らした東京という意識があったから。どこで営むかを決めてから、むしろ営みはじめてからの行き当たりばったりで「だれと」に当たる猫5匹と出くわし、「なにをして」の部分で「TENGという会社をつくり、地域や教育やPRに関わようになった」ができあがってきた。

そして、優先順位は、ライフステージによっても移ろっていく。今は「なにをして」の「書く・つくる」が一番上で、次に「だれと」の「猫たちと」がある。「どこで」については「立ち上げたプロジェクトをもとに地域との関係性を残していく」ができれば新たな拠点もあっていいと考えるようになった。東京だけじゃなく、京都や韓国という選択肢もなんとなく増えた。移ろっていくからこそ、「訂正する力」が必要だ。ブレちゃいけないわけじゃなく、なにだったらブラしてもいい軸なのかを問い訊していく。ふり返れば、ライフステージの変化もなんだかんだで2~3年だなぁ、とつくづく。

まあ、冬の寒い時期は、菌や虫が暴れないのをいいことに「食器をかなり溜め込む」という惰性などはずっと変わらないし、もしかしたら一人のままでは一生もんの付き合いなんじゃないかとため息がでる。が、しかし、それも自分という人間だよねぇ、と吐く息を飲み込んでしまうかとも今じゃ思う。

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