時間はつぶせるのか
お昼どき、田端の駅ビルの中にあるカフェで時間をつぶす。時間をつぶすと書くと、どこか余裕があるようだし、休みみたいな書きようだけど、まあそれなりにやることは溜まってるし、ふつうに稼働日であり、「やらなくちゃいけない」ことの逆算にひぃひぃ言いながらやっている。1時間後に、打ち合わせのような、ただのランチのような、ふわふわした対面が待ち構えており、あと1駅という距離でスタンバっている感覚があるので、無意識的に「時間をつぶす」が出てきてしまったのだ。ちなみに、スタバでスタンバっている。
しかしどうだろう、そもそも「つぶす(潰す)」という言葉に対するイメージは、力を加えて形を変える、くらいの物理的・具体的なアクションである。それを、時間といった形のない、概念的・抽象的なものをどうにか捕まえて圧を加えてやろう、そう解釈もできる行為である。よくよく考えてもみれば、時間は神様みたいなものだ。決して抗うことのできない絶対神。そんな存在につぶすをくっつけた慣用句をつくろうと思うなんて大したもんだ。近代になり、科学と化学で説明できることがほとんどだから、もはや神の時代ではない、という人間のエゴが染み出た言葉のようにも聞こえる。
まあその価値観も人それぞれだよね、と「人それぞれ」という最強の逃げ言葉を使えば、いくらでも片付けられる問題ではある。少なくとも、ぼくは時間という神にひれ伏して生きていたい、つねにそう考えている。それは時間に支配され、いつも追われるように生きたい、ということではない。時間はだれにたいしても平等だとしても、その有限性は相対的、いつやってくるかわからない時の停止(死)はなるべく忘れぬようにやっていきたいですよ、という意思である。
これだけ、目を耳を奪うようなコンテンツないし情報に溢れる現代だ。その中で、「自分の時間」を守り、その瞬間瞬間の集中力の純度を上げられるかどうかは、イッツアップトゥミー。時間に揺さぶられることなく、時間の波にうまく乗っかる。そういう意味で、時間なんてものはつぶすことのできない、圧倒的存在である。スタンバってる間に、この微々たる高さを保った熱量を書き留められたのはよかった。待ち合わせ、というデッドライン(死)のおかげか。助かるわ。そんでは、いってきます。
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