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続・お酒は飲めなくてもいい

お酒を扱う仕事をしてるからといって、みんながみんな酒好きというわけでもない。バーテンダーの中にも下戸はいるし、それでも一流と呼ばれる人もいる。

と、オラシオさんのnoteを読んでいてふと思ったのだった。

つまり、酒が好きなバーテンバーがいれば、”酒の場”が好きなバーテンダーだっているわけで、カウンターの中であろうが外であろうが、その人がその場にいるのには理由がそれぞれある。

かくいう自分も酒よりも”酒の場”が好きで、バーテンダーという働き方を選んだクチである。隣り合ったお客さんがどのような会話を広げ、関係性を築いくのか、空間づくりのためにカクテルがあるのだと思っている。

そこらへんは、たしか過去にしゃべったことがあったけど、二十歳のときに連れてもらった新宿3丁目のバーでの原体験があったからからだ。そのマスターの姿が目に焼き付いていて、バーで働くようになった(酒そのものの面白さに気づいたのは後になってから)。

で、またさっきのオラシオさんのnote内容に戻ると、「酒や酒の場が好きかどうか」とは違う尺度として、「(体質的に)酒が飲めるかどうか」問題がある。

で、その合わせ技で、「酒は飲めるけど、あまり好きではなく、飲まない人」がいることにオラシオさんは触れているわけある。

自分も「(一人のときに限るが)飲めるけどあまり飲みたくない」と思うことが多いので、この指摘はまさに!という感覚があった。なので、もし「飲めるなら飲まないのはおかしい」という発想があれば、それはズレている気もするのだ。

人は酒を飲むかどうかを、身体的キャパで考えるわけでなく、”気分”で考えることのほうが多い。そのときどんな気持ちで、どんな距離感のだれといるのか、によっていくらでも酒の飲み方は変わってくる。

そうやって、みんなさまざまな気持ちを抱えながら酒の席にいるからこそ、バーやカクテルの位置づけは多様であるべきだし、バーテンダーの立ち位置も寛容でなくちゃとつくづく思う。

よく勘違いされやすいけど、お酒を提供するのがバーでなく、心地よい時間を提供するのがバーであって、その空間をつくりあげるのがバーテンダーの役割だ。

お酒は飲まなくてもいいし、好きにならなくてもいい。だけど、さまざまな人の物語が交差する、”酒の場”は好きになってほしいし、そのためにバーとバーテンダーは変化していかなきゃなだよね。

時代とともに、酒も酒の場の意味づけも移ろっている。そりゃ、酒を飲む人が変わってきてるのだから当然か。だからこそ、酒を提供する側も変わり続けなきゃいけない。

てことで、ローアルコールカクテル、モクテル(ノンアルコールカクテル)をここ数年ずっとリサーチしてきたわけです。特に地方だとさらに必要だと思うんだけど、そこらへんについてはまた別の機会に。ほな。

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