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寒いは生きている

静けさとともに寒さがやってくると、不思議と「生きてるんだなあ」と感じてしまう。沖縄育ちの自分にとってはそりゃあ鳥取の冬は真逆の気候でえらい(大変な)のだけれど、生を感じられる地であるのは間違いなく、だから離れがたく、白の季節を嫌いにはなれない。

寒いからこそ、温もりがほしくなるわけだが、その暖をとろうとする欲望や行為そのものが生にしがみついてる自分を確認でき、「ちゃんと人間してる」と安心できる瞬間だったりもする。

数年前、冬の能登半島で、大きな茅葺き家の定食屋に立ち寄ったことがある。古い家で冷気がしんみり広がるも、部屋の真ん中にはどんと囲炉裏が置かれていて、数人が手をあてながら、お昼ご飯がやってくるのを待っている。ぼくもそれを自然とまねた。注文して数分後にやってきた定食は、ご飯とみそ汁、魚の天ぷらなどがのった大皿と小鉢がふたつ、いたってシンプル。一番最初に手に取るのは、もちろん、みそ汁。まずはじんわり手を温めてから、口へとゆっくり運んでいく。舌から喉、そして胃までを流れこむその間に全身に温もりが染み渡っていく。劇薬ともいってもいいくらいに速攻で身体を喜ばす日本最強の料理、みそ汁。

あんなにも寒かったからこそ、時間が経過した今でもこびりついてる記憶である。

もしかすると、寒いことを寒いとして、しかと受け入れるには、インフラが整いすぎてしまっている。現代は。特に都会には。

ちょっとお店や公共施設に入れば、暖がとれてしまう。もちろんそれは積み重ねてきた人知の賜物であるのは確かなんだろうけど、外気をつねに自分たちにちょうどいいようにコントロールできてしまうがゆえに、「制御できる」のが当然という思考になってきてはいやしないか。「制御できないのはダメ」という奇妙な烙印を押していやしないか。

自然は、おろか、その生態系の一部でしかない人間の業だって、本来はすべてを制御できるわけではない。すこし飛躍しすぎたかもしれないが、寒いは生きている、そのものである。と、ぼくはつい言いたくなってしまった。

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