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ツイッターが東京化してきたな

 ツイッターが東京になってきた。

 もちろんツイッターとはxのことで、未だに口にも目にも慣れぬ名称に抗い続けているわけである。なので、このまま無理やり「ツイッター」でいく。

 大都会、東京。ふだんは鳥取にいるけど、定期的に(二拠点のときもあって)いるのが東京だ。沖縄出身だけど、まあいっても大学から上京してたし、やたらめったら都会のあれこれに驚いたりすることもないのだけど、都会と田舎を行き来する度に感じるのは「東京は、ノイズ(騒音)が多い場所だなぁ」ってこと。

 このノイズは、ぼくの勝手な分類だと、物理的なものと、精神的なものとに分かれる。物理的なものでいえば、二つあって、聴覚的なもの視覚的なものである。

 わかりやすく聴覚的なものでいえば、街場は音がひっきしなしに聞こえてくる。一昨年に、数年ぶりくらいに駅から徒歩5分ほどのアパートを借りた。すると、家にいても早朝~夜までずっと聞こえる中央線の音。少しお店が固まってるほうに行けば、朝までオープンしてるせいか、店内外のどちらもジャカジャカ音が鳴り、その周辺をうろつく人たちもペチャクチャしゃべってる。

無音の瞬間がほとんどない。真夜中のほんのひと時くらいじゃないだろうか。だから、都内にいるときは、耳栓(ループクワイットを愛用している)でノイズキャンセリングしながら生活していて、もはやそれがないと落ち着かなくなっていた。

 そして、視覚的なノイズについて。「騒音」なので「目に見えるもの」が関係するのはいささか変な主張に見えるだろうが、もう少しだけお付き合いください。東京は、いたるところに広告が多すぎる。隙間があれば、これでもか!と広告が入り込んでくる。電車に乗りゃあ、もう、静止画どころか動画CMがループしまくってて、頭がおかしくなりそう。サブリミナル効果的にしれっと映り込んでくるものが「東京で暮らすうえでのスタンダード」だとか「あなた、これ必要でしょ? 欲しいでしょ?」と訴えてくる・煽ってくるあたりが、心に与えるノイズなのだ。ここらへんは、次で説明する「精神的なノイズ」とほぼリンクするので、完全に「物理的なノイズ」と言い切れないのはご勘弁を。

 さいごに、精神的なものってことだけど、さっきの視覚的ノイズのような、心をモヤつかせたり、えぐってくる東京にはびこる「あたりまえ」「常識」があると思う。「みんながやってるから」「(メディアは都会を中心に動いているという点で)テレビやネットではこう言われてる」など、知人や同僚などの周りに揺さぶられまくりながら
、「自分はこう思うんだけどなぁ」に惑いやすい環境があるんじゃないかって。

 「東京で暮らし続ける=うまくやってる人」という幻想は、不思議なもので、地方で暮らす人の中では少なからずあるのも事実で、逆に「東京から出たら都落ち」という感覚を持ちながら、東京にしがみついてはモヤモヤしている人も少なくないんじゃないだろうか。東京にいる、というだけでも「東京だとこうだよね」という見えないノイズにあてられ続けている可能性がある。

 前置きが長くなっちゃけど、「ツイッターもいつのまにか、そういう東京のようなノイズだらけのSNSになったよなぁ、以前のほうがもっとヘルシーだった気がするのだけど」と思ってしまったことをここに記録しておきます。ただの雑感。以上。

p.s. 大学が府中だったこともあり、前述したようなザ・東京ではない「東京っぽくない東京はたくさんある」し、そこが地方出身の人が勘違いしがちなことだということ、簡単に「東京を一括りにできない」こと(むしろ駅ごとの多様性やべえし)があるのは、重々承知での共有でございます。怒らないで。それに東京は好きなんですよ。嫌いなところ......というか合わないところもあるんだけど。逆に鳥取にもそのポジティブ・ネガティブな両方はあって。田舎には田舎なりのノイズがあるのも事実だし。都会と田舎、東京と鳥取、いい距離感での付き合いをしたいからこそ、自分にとっての粗は見つけて補える何かを見つけたいものですね(ムズい)。

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