見出し画像

「書ける」の奥にあるもの

デザインや映像というのは、できる人とできない人の差がわかりやすい。だからか、その価値はそれができる人口(分母)に左右される気がする。

ただ、「文章」というのは、小学校から国語という授業を通じて学び、大学でのレポート、社会人になってからもメールや資料作成もあるため、日本人であれば、それなりには書くことができてしまう。

それゆえに、「文章が書ける」ということ行為自そのものには価値を感じてもらいにくく、「よい文章」の価値基準もわりかし曖昧にされているような気がする。一般的に、ブロガーとライターの違いが区別されにくいのも、それが関係しているからじゃないかなぁ。

ライター歴7年ほどの知り合いが、地方(わりと田舎のほう)に移住して、地域の情報発信に取り組むなかで、地元の人から「文章なんてだれでも書けるんだから、そんなのにあまり時間を使わんでよろしい」というニュアンスの言葉を投げつけられたそうだ。

そのエピソードを聞いて、ぼくは「いやいや、ただ書けばいいってもんじゃなくて、届けたい相手を定めて、必要情報を絞り、読みやすいボリューム(文量)で、短く正確に伝える(+画像セレクト)ってそんな簡単なことじゃないぞ」と第三者ながらにムムムム・・・と感じたものだ。

知人のライティングスキルが高い(と感じていた)だけに、それが評価されていない、むしろ、地域で消費されている状況が不憫に思えた。ただ、そういった類の話というのは、実際のところ、各地を見渡してみればどこにでもある。

クリエイティブの価値が理解されにくい、そのなかでも、(アウトプットするとだけという意味では)だれでも「っぽい文章」が書けてしまうがために、ないがしろにされてしまう風潮は、少しずつ変わるといいよねえ、と感じるわけで。

近年、「ローカルメディア」という名を使いながら、地域を発信する媒体はかなり増えてきた。しかし、工夫なく、ただそこにあるものを発信しているだけの、いうなれば、蛇口を捻っているだけで”垂れ流し”の情報があるだけの媒体も少なくはない。その立ち上げはしたもののの、更新されない”遊休メディア”になっている話もよく目にする。

昔、ピースオブケイクの加藤さんが書いた「原稿の書き方の原稿」が示すように、プロの書き手というのは、見えにくいところで文章の設計図をそれぞれ持っているものだ。

文章が”ちゃんと”書けるというのは、届けるべき人に正確に伝わるように、しっかりと情報が流れる”水路”を設計できる人であるはずだ。ある種、”テキストデザイナー”であるとも言えるかもしれない。

えぇと、カクノダとしてはですね、”ライター”とまではいかなくても、ライターの職能を備える(ライティング、インタビューができる)人を増やしたり、ローカルにおける文章の価値を底上げしていけるといいなぁ、とひっそり思っていたりします。

もしも投げ銭もらったら、もっとnoteをつくったり、他の人のnoteを購入するために使わせてもらいます。