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忘れるから、続かない、終わらせられない

 忘れることの弊害が増えた。

 ただしくは、忘れることの弊害が増えていたことに最近気づいたばかりだ。先週くらいに、もしや......?と勘ぐっていたが、今日それだ!と確信した。

 そんな確信したてほやほやの話を書き留めておく。

 仕事でもプライベートでも、その場の勢いのままに進めることで、完結に至ることがたくさんある。中途半端に手を止めて、「後からやるか」と思っていたら、その「後から」は訪れることはなく、手つかずでお蔵入りになる作業はだれしもある経験だろう(おめでとう、またやっちゃいましたね)。

 その「後から」がない原因を自分なりに探ってみた。理由は単純明快で、「思い出す」作業がめんどうくさいだけだった。

 あのときの熱量、作業のルール、どういう段取りで進めていたのか……etc.を思い出すことが億劫なのだ。

 たとえば、書きかけの原稿(「下書き」保存したもの)であれば、まず文章を読み返し、内容を確認から始まる。次に、どんな状況で、どんな気持ちでここまで書いたんだっけ? どうやってオチつけようとしてたんだっけ? を思い出そうとする。もし記憶が鮮明に蘇ってきたとしても、「今」の感覚だとその時の判断はしっくりこないから(気分が乗らないから)また内容を練り直す羽目になる。

 つまり、本来、手を動かすだけでいいはずのことが、「思い出す」運が悪ければ「練り直す」という作業が増えてしまい、「ああめんどくさい!」と手を出さなくなる。これが自覚なく行われていたことがチクショー!案件である。

 習慣にしようとして、続けていたことも一度サボって期間が空くと二度と手を出さずに終わることのカラクリはこれだ。とりわけ習慣になる以前に、少しずつ「ルールを定着させようと奮起していた」ときに中止すると、再起不能になりやすい。新しい「方」や「型」をつくることのエネルギーってまじ凄まじいのをぼくらは知ってるから。

 自転車って、一番最初のこぎ出しに馬力がいる。そのペダルにずっしりと重さを感じるけど、いざこぎ始めてみると、力学のおかげでスイスイと快適に走って行ける。

 「思い出す」ことの重さは、歳をとるほどに厄介でズシンとくる。「メモしたとて!」とその無意味さに打ちひしがれる瞬間も増えた。「メモした文字や図解をヒントに思い出す、この時間がもうつらいんすよ!」と情けない叫びばかりが脳内に響く。

 どうせ忘れるし、思い出すのがめんどくさくなって、後からやらない。そういう自分を信じて、そのときの勢いのままに手を動かす。いったん終わらせ切ってしまう。

 おじさん見習いとして、そういうライフハックを採り入れないと、どんどんダメな人間になってしまう。そういう葛藤や恐怖と毎日闘っている。

p.s. この記事は勢いのままに書き切ることができました(おめでとう、ちゃんと抗えましたね)。

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