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大丈夫、いつだって苦しいのよ。

 一日のうちのどっかで、ふと手が止まるときがあって、思い出したかのように一つの物事に脳内をジャックされることがある。すると、しばらくぼ〜っとしちゃって何も手をつけられない。

 そういうときは『Tokyo Lights 2』を聴くといい。いつの間にか、それが、自分のトリセツとして記されるようになっていた(「うろうろ歩き回ってみる」が追加オプションとしてある)。

僕らは後々、何処に行くんだろう
解読も出来ず、また聞き返す また聞き返す
東京電燈は貴方を映していました
And they glow, yes they glow 跳ね散らされる僕の想いと
東京電燈は我等を迷子にさせました
And they glow, yes they glow なにとぞ、なにとぞ、答えてくれよ

 たぶん、歌詞と心情がえらくシンクロするから心地よくて、「いったん落ち着こうぜ」モードになれるのだろう。突如やってくる、不安とか迷いはとりあえずいったん腰を下ろせる場所をさがす。

 今日も今日とて、この曲を聴きながら、ふと思ったことがあった。

「毎日はそれなりに苦しい、という事実は、10代で知りたかったんだよなぁ」

 と。さらにフラッシュバックしてきた、とある飲みの席のこと。

 40過ぎのおじさんが(苦笑)テイストで「まあ、いろいろあるからねえ」とボヤいてたときだった。

 SNS上では躍進躍進というような日々を送っているように見えても、やっぱり人間なのだ、何かしら抱えている。カウンターで格好よくウイスキーを呑んでいるおじさんの哀愁のそれと酷似する。

 少し赤らんだ表情でしっぽりと酒の継がれたお猪口をクイッとやる様子を目をやりながら、言葉のグラビティとリアリティをまざまざと感じ、ボクは「いや、よかった」と安堵したのだ。

 こんなおじさんでも悩んでる。てか、何歳になっても悩んでもいいんだ。そんな後押しをもらえたような気がしたからだ。そして、続けざまにこんなことも思った。人によってその大小の差はあれど、「悩みは憑き物として死ぬまで付きまとう」。その事実を若い頃に知ってれば生きるのはもっと楽だったかもしれない、と。

 中学校のときだった。むやみやたらに物事を考えすぎてしまう癖(もはや性癖)が昔からあって、よく悩む学生だった。のわりに、稚ながらに、主将だとか級長だとかリーダー的立場にいたこともあって、弱さなど見せてはいけないとムリに強がっていたから、悩みなど打ち明けられる人も当然ながらいない。

 だけど、唯一とある先生にだけは偶然そういう話ができて、もらった言葉にハッとしたのをよーく覚えている。「そうか、悩んでるのか、だったらもっと悩め」と。

 解決策なんて一つも教えてくれなかった。ただただそれを肯定され、もっとと促されただけ。当時のボクは「悩むこと=悪」だと思っていたから、心底救われた気がした。「あ、じゃあもっと悩んでやろう」とすら思えるようになった。

 すると、悩めば悩むほどに悩みの内容もアップデートされることに、悩みの変化が自分の変化につながっていることに気づくようにもなった。

 そして現在、31歳という“おじさん見習い”をやっていると思うのは、今も毎日悩んでいるよ、悩みは付きないよ、ということ。仕事のこと、家族のこと、お金のこと、人間関係、自分の足りないところ、etc.。

 新たな悩みもあれば、10代からもう何周も回ってきてる悩みもある(もはや、それは性質なのではないかとすら思って付き合い方を模索している)。そして、相変わらず、毎日うっすらと苦しいのだ。

 で、ふと思ったのだ。あのときには気づかなかったけど、「もっと悩め」とボクに言ってくれたあの先生もきっと何かで悩んでいたのかもしれない。ボクに言ってるようで、実は、自身に言い聞かせている言葉だったのかもしれない。

 しばらくしてから、その先生はちょっとした事件を起こしてしまい、学校を去っていた。細かい内容までは書かないけど、不可抗力の事故だったようには思う。とにもかくも少なからず抱えていた悩みの種火がそこで轟々と燃え広がったようにも捉えられた。

 今もどこかで先生をやっているのだろうか。今何をしていようが、ちょっとした事件を起こしてしまった罪があっても、ボクが救われた事実は変わらないことだし、これから悩んでいる若者がいたら「悩んでも大丈夫だよ」と言うバトンを勝手に受け取ったように感じている。

「いつだって悩むし、いつだって苦しいよ」

 とボクは言いたい。けど、一つ添えるとしたら、ネガティブな意味では決してない。この悩みとそこに付きまとう苦しさってのは、人生のスパイスのようなものな気がしてる。つまり、悪いもんじゃないよってこと。悩みはないとないで困るのよ。

 銭湯や温泉に行く。熱湯でじっくり温めた体。浴室を出て、汗がじんわり、ほてった体に、冷たいコーヒー牛乳をぶち込むと、最高に気持ちいい(え、ジェネレーションギャップとかありますか?)。

 この「熱い」からの急激な「冷たい」だからアガる。悩みや苦しみはこの熱さに似てて、日々のどこかのヒヤッとコーヒー牛乳が打ち込まれるような瞬間があるから、充足感だとか達成感だとかが湧いてくる。むしろその熱さがあるから倍以上の快感になるのだとも思う。

 だから、悩みましょうよ。同時多発的に、おじさんも悩むから。てか、すぐそばのおじさんも隠しているだけで何かしらでは悩んでいるはずだから(社会的立場という仮面があるから余計に悩んでしまうのはあるけど)、ちっとも恥ずかしいことじゃないから。

 悩んで悩んで悩みまくって、その先にある悩みをみつけにいきましょ。

 ちなみに、悩みの強度を高めたり和らげる一つの策としては、本屋やレンタルDVD屋さんをうろうろすることをオススメします。故・水木しげる曰く「悩んだときほど本は読みたくなる / 悩みが読書を加速させる」 で、しんどさを抱えているときに手にとる作品ほど、深く突き刺さる、生涯忘れない作品になりうるのだと思うので。

 今は本だけじゃなく、映画も死ぬほどあるから、その選択肢もある。で、ポイントは自分の興味を度外視して、普段なら回らないような棚も回ってみること。なんか良いのみつかるかもしれないっすよ。

 そんで、31歳の、おじさん見習い的にはこう思います。

 子どもも大人も同じ目線でもっとポジティブに悩める社会であればいいよな、いや「社会」というとちょっと大げさか、とりあえずは、悩みをストレスなく打ち明けられる成熟したコミュニティややわらかな人間関係が当たり前にあって“悩ミューケーション“が広がる半径5mがあるといいよね、と。おしまい。

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