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Facebookに媚びてるわたし

Facebookを使うと仕事が増える。これはフリーランスとして数年使うなかで実感したこと。自分が今どこにいて、何をしているか、何をしてきたか、何ができるか、を投稿したり、イベントを打ち出すことで、自分の存在を打ち出せるのだから、そりゃ仕事につながりやすい。

それがあったから離れたくても、なかなかFacebookから離れないでいたぼくであったが、以前書いたように、こっから離れる準備をしている。理由は簡単だ。Facebookに媚びている自分に気づいて、嫌気が差したから。

一度そういう冷静な頭になると、「○○と(友達として)繋がっている」あや「どんな技術がある」などをPRしたり、マウンティングし合ったりいる知人たちの投稿をみて、気持ちわるさばかりがこみ上げてくる。そのおべっかをないよなぁ、嘘をつき続けているよねぇ、ああ、自分もこうだったわけね、と。

そうしないと成り立たない働き方、仕事をそもそもしなければいい(したなくないことをやらないくてもいい環境をつくればいい→自分を詰めにいけばいい)。

ぼくはそう思ったから、「書く」仕事から降りようと思った。し、基本的に(特別な関係性がないかぎりは)、一ライターとしての仕事は受ける気はないし、「移住」とか「まちづくり」とかそういった界隈の人とも絡む気もない。正直めんどくさいし、自分で自分を消耗している感覚、自分で自分を殺しにかかっている気もするし。

だから、メディアの仕事で学んできたものを活かして、宿をやったり、飲食をやったり、「泊まった飲んだ食った→お金をもらう」で現場主義の(わかりやすい)商いをはじめる。いろいろと実験するなかで気づいたのは、そこには、Facebookのような(”いうほど友達じゃないのに友達”という)うっすい関係性は必要がないということ。

人間が関わることのできる人数は限られている。ライフステージによって、(言い方はよくないが)切るべき人はいるわけで、それを断ち切らないと辻褄が合わなくなってくるのは確かだ。

逆にいえば、巡り合う人は、どこかのタイミングでまた巡り合う。無理矢理に、けん制しあうように、半信半疑で、心理戦を行っていく関係性をキープするよりは断然いい。切るほうが健康的だ。

6月からFacebookを再開して、note日記のリンクシェアをはじめて様子もみたが、やはり連携はあまり必要ないかもしれない。ひっそりと再開したTwitterのほうが(個人とSNSツールそのものの)相性もいい。だから、また少ししたら新たな実験に切り替える。

note日記のシェアの仕方を変え、日記をまとめを載せているメルマガと、これからはじめる有料note、またちょっとした告知が中心になるはずだ。そろそろ個人サイトも整っていく。

今までFacebookが一番最初の入り口になっていたけど、少しずつ移植(移行)手術をしていくイメージである。もちろん、時間はかかるだろうし、2019年3月末を最終日にしたいと思っている。

そういう意味では、ぼくにとってFacebookは、他人の情報を読み込む役割が大きくなっている。発信よりも受信ツールとしてのFacebookとして。

一度つながったとき、つながる前に相手のプロフィールを見れば共通の知人で動いているジャンルやエリアがわかるし、投稿を見ればよくもわるくも人となりがわかる。そこはめちゃくちゃ便利だよあと思うし、最近までの3~4年は根なし草で移動ばかりだったので、そのありがたみがあった。

あらためていうが、段階が変わったのだ。暮らしの、働き方の、商いのかたちが。

偉そうにいえば、しんどいと思ってるくせに「いつまでそこにいるの?」「え、ずっといるつもりなの?」と思うような知人だっている。たくさんいる。まあ、他人の人生だからべつにいいんだけど、妙に絡んでくれるな、というのはあるんだよなぁ。おまえらは餓鬼か。

Facebookに媚びてきた自分を反省しつつ、”止める”でなく”辞める”ための準備を引き続き進めていこう。0か100のどちらでなく、小さく少しずつ、移ろっていく。で、辞めたとしても、ぼくは勝手にどっかで生きています。

[1701字]

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