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【短編連続小説】生理カウントダウン(4)-2日前-

 朝起きたときから気分はとんかつだった。
 私の生理前の傾向として、油っこいものや味の濃いものを無償に食べたくなるというものがある。3ヶ月の1回くらいの頻度でそれは爆発的な欲求となって襲いかかってくる。今月はそのタイミングのようで、私は心底とんかつを求めているようだ。それにしても目覚めた途端に「とんかつ!」とならなくたっていいではないかと思う。今日一日ずっととんかつのことを考えて過ごさなければならない。こんなふうに食欲を増幅させ、食べ物へ執着させるのもホルモンの仕業だ。
 私にはたまに訪れるとんかつ屋がある。家の近所にある肉屋が営んでいるとんかつ屋だ。1階が肉屋で、2階がとんかつ屋になっている。私はいつもロースかつ定食のごはん少なめと瓶ビール(中)を注文する。その店には千切りきゃべつ用のサウザンアイランドっぽい自家製のドレッシングがあって、私はそれが好きなのだ。ソースをたっぷりかけたとんかつとドレッシングをみっちりとまとった千切りきゃべつを一緒に食べる行為は、シンプルな幸福を与えてくれる。私は朝からその幸福をうっかり反芻してしまい、ますますとんかつが食べたくなる。下腹部の痛みもとんかつへの思いの前では鳴りを潜めているような気がする。とんかつに感謝しなくてはならない。
 昨日の私は本当に使い物にならなかったので、仕事がなかなか進まずに早く帰りたいという願いが叶えられなかった。今日こそは早く会社を出て、いつもの店でとんかつを食べようと心に誓う。
 今日は百合草さんが休暇を取っているおかげもあり、誤字脱字に振り回されることなく、午前中の仕事は生理前の私としてはいいペースで進めることができた。社食での昼食はかき玉うどんというあっさりしたものを選択し、とんかつがよりおいしく食べられるようにコンディションを整えた。木立さんの首のキスマークはほとんど消えていて、その事実もとんかつへ向けての定時ダッシュを応援しているようにすら感じる。今日は余計なことを考えなくていいから、あなたはとんかつ一筋で行きなさいと。
 とんかつへの思いが強いせいか、チョコレートの摂取量も抑えることができて、生理前にしては調子のいい日だなと浮かれながら仕事を進めた。
 あと5分で定時という段になって、私はそういえばと思い、右隣の席の池ノ上くんに話しかける。
「今やってもらってる資料だけど、予定通り明日には終わりそう?」
「いや。それなんですけど、ちょっと相談したいと思ってて。今話してもいいですか?」
 おや。「はい。明日には完成します」という返答が来ると思い込んでいたので、少し戸惑う。とりあえず相談とやらを聞かねばならない。
「うん、いいよ。なんか悩んでる?」
「いや。そもそもなんですが」
 そもそもなんて言葉から始まる相談が軽いはずもなく、池ノ上くんは次から次へと言葉を吐き出し続ける。
 3年目の池ノ上くんは分かりやすく向上心があるタイプだ。そのせいなのか、オリジナリティを出そうとして考えすぎてしまうところがある。その結果、本来の目的を見失ってしまい、違った方向にエネルギーを注ぎ始めたりする。池ノ上くんの話を聞いていると、どうやら今回もそうなってしまった気配が漂っている。
 頼んでいた仕事はそんなに難しいものではなかったし、過去の参考資料も伝えていたので滞りなく終わると思っていた。しかも私は生理前のせいで月曜日はいらいらしていたし、昨日はぼんやりしたり悲しくなったりしていたので、池ノ上くんへの状況の確認を怠ってしまった。私としたことが。とんだミスだ。
「とりあえず作ってる資料見せてもらえる?」
「いや。だからまだ考えがまとまっていないので、資料作成には手を付けられていません」
 池ノ上くんは若干あきれた感じで言い放つ。今までの話を聞いていたら分かるだろと言いたいのだろう。彼は人を小馬鹿にしていることをオープンにしがちだ。
「でもさ、明日までに完成させてってお願いしたし、依頼したときは期限までにできるって言ってたよね。いざやってみたら検討事項が増えちゃったってことなのかな」
 とんかつが薄ぼやけていくのを感じながらも私は何とか冷静さを保って聴き返すが、池ノ上くんはもにょもにょと曖昧な返事をするだけだ。
「参考にしてって言った資料は見た? あれを見ればそんなに迷うことないと思ったんだけど」
「いや。まだ見てないです。真似しても意味ないと思ったので」
 がーんという音が頭の中で響く。オリジナリティを求めがちな彼にとって、過去の資料を参考にするという頭は最初からなかったのだ。オリジナリティなんてものは基礎ができてからの話でしょうよ、まずは期限までに仕事を終わらせられるようになりなさいよと言ってやりたいのこらえ、とりあえず目の前の問題を考えることにする。
 取り得る手段は3つだ。
 ①もう池ノ上くんにはこの仕事は頼まずに、私が引き取って明日やる。
 ②今日は何も聞かなかったことにして、明日考えることにする。
 ③池ノ上くんを軌道修正して明日から改めて作業をしてもらうにあたり、今日のうちに私の中でどう指導するか整理しておく。
 とんかつのことを考えれば①か②なのだけれど、私自身が抱えている仕事のことを考えると③だ。池ノ上くんにとっても③がいいのだろう。本音を言えば彼の指導について私は匙を投げたいと思っていて、課長にも伝えている。私は彼のようなタイプの指導には向いていないし、彼にとっても他の人がいいと思うと。でも課長からはもう少しがんばれと無責任なエールを送られているので、もう少しがんばるしかないのだろう。
 よし、③で行こうと決めた私は池ノ上くんに話しかける。
「状況は分かった。もう18時だし、今日は終わりにしよう。明日改めてどう進めるか話そうか」
「いや。はい。分かりました」
 池ノ上くんはそう答え、パソコンの電源を落としてさっさと帰っていく。彼は今日の夜、何を食べるのだろう。それにしても、仕事の話をするときに「いや」から始める癖を何とかしてほしいものだ。今更だけど注意したほうがいいのかもしれない。
 私は池ノ上くんに頼んでいた仕事を確認して、どうやれば彼が変な方向に行かずに進められるか考える。彼は人の話を聞かないきらいがあるから、とりあえずメールにポイントを書いていく。あまり端折らず、できるだけ分かりやすく。仕事を引き取ったほうがよっぽど早いだろうという所感には気づかなかったことにして、うんうんと悩む。
 1時間ほどかけて自分の中で整理がつけられたので、池ノ上くんにメールを送る。明日はこれをもとに話をしようと決めた途端、薄ぼやけていたとんかつが存在感を増し始める。今日はとんかつ最優先で行こうと決めていたのに、うっかり池ノ上くんに振り回されてしまった。急いで帰り支度をして会社を飛び出す。
 自宅の最寄り駅に着き、転がるようにとんかつ屋へ向かう。もうとんかつのことしか考えていない。一刻も早くとんかつが食べたい。早く早く、とんかつを。
 ついにとんかつ屋にたどり着き、2階への階段を駆け上がる。よし、と引き戸を開けようとした私の目に、木札に書かれた「支度中」の文字が飛び込んでくる。私はぽかんとして動きを止める。ドアの向こうからは人の気配を感じるし、明かりもついている。なのにどうして「支度中」なのかと、私は静かに混乱する。そして思い出した。この店のラストオーダーは20時なのだ。今は20時5分。つまり今日この店ではもうとんかつを食べることはできないということだ。
「そうかそうか。ちょっと遅かったか」
 私はそうつぶやいて、踵を返す。何だか足に力が入らないので、注意深く階段を下る。
 近所には他にもとんかつ屋はあるが、あのサウザンアイランドっぽいドレッシングがないと私は満足できないだろう。だから今日はとんかつをあきらめるしかない。とんかつを食べることはできない。
  なぜこんなことになってしまったのだろう。仕事をうまく進められない池ノ上くんのせいか。池ノ上くんの指導を私に頼む課長のせいか。違う。今日まで仕事の進捗を池ノ上くんに確認しなかったのは私で、今日になって定時間際に池ノ上くんに話しかけたのも私で、明日に向けてあれこれ考えておこうと決めたのも私だ。だから私のせいだ。
 とんかつを食べたいという簡単な欲求を満たすこともできないなんて、私はなんて無能なのだろう。価値のない人間だ。自分をぶん殴ってやりたい。階段を降りたところで立ち尽くしながら、私は私を責め立てる。
 生理前はホルモンのせいでとてつもなく落ち込むことがあるが、どうやらその状況に陥ってしまったようだ。しゃがみこんで丸くなってわんわんと泣きたい気分になる。
 とにかく何か食べよう。とんかつに代わる何かを。空腹を満たせば、ホルモンも少しは大人しくなるかもしれない。たとえとんかつが食べられないとしても。

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