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【短編連続小説】生理カウントダウン(2)-4日前-

 お昼はいつも社員食堂を利用する。
 私はポークカレー、杉さんは油淋鶏定食、木立さんはわかめそばをチョイスした。
 なぜなのかは知らないが、私の所属する部署では同じチームの女性同士でお昼を食べることが慣例となっている。今は杉さん、木立さん、私というメンバーだ。2人とは課が違うので一緒に仕事をすることはなくて、お昼だけ会話をする仲だ。
 今日は私の右隣に杉さん、向かいに木立さんが座った。みんなでいただきますと言ってから食べ始める。
 私はポークカレーに付いている千切りキャベツのサラダを食べながら、対面の木立さんの首にキスマークを見つけた。
 これまでに木立さんから聞いた話によると、木立さんは合コンで知り合った男性と2人で2回食事に行き、告白されて付き合うことになったそうだ。それが1ヶ月ほど前の話で、それ以来木立さんは毎週月曜日にキスマークを付けてくるようになった。キスマークはいつも同じ位置にあるので、その部分の皮膚が変質してしまうのではないかと心配になる。大きさはレーズン2粒分くらいだ。月曜日には鮮明なキスマークは、火曜日から徐々に薄くなり、木曜日にはきれいに消える。
 初めて木立さんのキスマークを見つけたとき、私はひどく驚愕した。人から見える位置にキスマークを付けるなんていう行為は、それをある種のステータスと誤認した若者がやることであり、少なくても学生時代の終わりとともに卒業するものと思っていた。木立さんは現在2年目で若いといえば若いが、さすがに社会人が性的行為の痕跡を毎週さらすのは、ただの阿保だ。もちろんキスマークを付ける木立さんの恋人も阿保だ。
 だから注意したほうがいいだろうと思うものの、何をどう言えばいいのかと考えあぐねている。ストレートに「キスマークは付けないほうがいいよ」だと、何だかプライベートにまで踏み込んでいる気がする。キスマークを付けるのは個人の自由だとして、問題がその位置なのだとすると、「首にキスマークを付けるのはやめたほうがいいよ」となる。ただ、首と言及すると何だかいやらしい感じがするし、「人から見える位置に」と言うと、さらにいやらしさが増すのではないか。私の頭はぐるぐるする。
 適切な注意の言葉が見つからないという理由とは別に、木立さんに何も言えないのは、私に恋人がいないという事実が大きい気がしている。木立さんのキスマークを見つけてからというもの、私は何度も自問自答した。恋人がいる木立さんへの嫉妬から、木立さんを目の敵にしているのではないかと。だからキスマークを悪行とみなして責め立てようとしているのではないかと。
 でも私は恋人がいないなりに穏やかで楽しい心持ちで過ごせていることに概ね満足しているし、何度考えても人から見える位置のキスマークを「恋する強い気持ちの表れね、素敵ね」とは微塵も思わない。だから木立さんに注意したい気持ちが嫉妬から生じているわけではないという答えは出ているのだ。
 残りの問題は、木立さんに私がどう思われるかということだ。もし木立さんを注意した結果、「あの人は長年恋人がいないから嫉妬しているんだわ。かわいそうに」などと思われるかもしれないと想像すると、やるせない気分になるのだ。自分が思ってほしくないことを他人が思っているという状況への耐性が低いようだ。私はまだまだ未熟だ。
 今日は何だかいつもより木立さんのキスマークが目に付く。そもそも何だって私が木立さんのキスマークについてあれやこれやと悩まなければならないのだろうと、突如強烈ないらだちが沸き上がる。そもそも注意するのに適任なのは杉さんだ。高校生の娘を持つ杉さんであれば、キスマークへの言及も親心的なものとして木立さんに届くに違いない。一刻も早く注意してくれればいいのに、何で杉さんは気づいてくれないのだろう。あなたの目は節穴なのかと問いたくすらなる。いや、もとはといえばキスマークなんか見せびらかしている木立さんが諸悪の根源だ。この大ばか野郎め。
 私の中で2人へのいらだちがおもしろいようにどんどん募っていく。制御不能な感覚だ。私はとりあえず味噌汁を飲みほして落ち着こうとする。具が少ないせいか、ちっとも効果はない。そしてこのいらだちは生理前だからに違いないと思い至る。私の人間性の問題ではなく、ホルモンの仕業なのだ。とはいえ、そうと分かってもいらだちが収まるわけでもない。
 そんな私をよそに、木立さんと杉さんは楽しそうに会話をしている。何でも、木立さんは昨日デートでサムギョプサルを食べたらしい。
「サムギョプサルっていうか、やっぱり豚肉っておいしいですよね」
「わかるよ。豚バラに代わる食べものってないよね。私も肉の中では結局豚肉が一番好きだもん」
 あっけらかんとした木立さんの豚肉への所感と、それに同意する杉さんのやり取りはいつもなら何の害もないちょうどいい話題なのに、今日の私にとっては火に油だ。
「じゃあ2人ともポークカレーにすればよかったですね」
 その言葉は自分でもぞっとするほど暗く湿っていて、私は途端に後悔する。
 もうだめだ、ここにいてはいけない。私は残っていたポークカレーを急いでかき込む。それから、「午後一で打ち合わせなので先に戻ります」とつぶやくように言って、逃げるように席を立つ。
 

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