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「個人的な体験」 : 希望の先にあるものは

2019年になってしまったので、今から2018年に読んだ本を思い出します。
大江健三郎の「個人的な体験」です。読んだのは9月くらい。

 障害ある我が子が生まれて混乱する青年「鳥(バード)」は、子供の死をひたすらに願い、女友達の火見子との愛欲の日々に明け暮れ、酒に溺れ続ける。
 私小説、と言われることが多いですが、やっぱり「小説」と定義したい。
 大江健三郎の長男・大江光が知的障害を持って生まれたことはあまりに有名な話です。感情も社会もカエルの子はカエルであってほしいと願っている。良い意味でも、悪い意味でも。

 当たり前だが、現実はそうとは限らない。
「鳥」は本が終わる数ページ前まで、混乱し苦悩し、逃避し続ける。
しかし、あと数歩で現実から逃れられると言う時になって、急に子供の存在を受け入れ、全く反対の選択をし、新たな一歩を踏み出すところで終わる。

 自分の手に負えない子供が生まれてしまった。これは事実だ。
 事実はいつも受け入れ難い。けれど、真実は雷だ。
 ある時一瞬で、稲妻のように隈なく心を照らし、雷鳴と共に心の底に落ち、受け入れた難い事実を受容させるだけの凄まじい力を持っている。
 あれこれ悩んで、たくさんのたうちまわった長い時間の果て、瞬く間にすべての意識、世界を変えてしまうのが真実だ。
 あまりに唐突な「鳥」の選択は、真実を得たからなのだ。

 「個人的な体験」は作家の体験がそのまま書かれたと言うより、「鳥」が真実を会得するまでの間に体験した物語、と取れるので、やっぱり小説だ。
フィクションとノンフィクションの境目が合間な、すごいタイトルだ。
 これ以外、あり得ない。

 女友達・火見子は選ばなかった選択肢(=宇宙)を思考するヒロイン。
当たり前だけれど人生は選択の連続で、その中で「出生」だけは選び得ないほぼ唯一のもの。その「出生」をめぐるファンタジーのようにも読める。
 あとがきでは、刊行当時不要だと言われたものの、どうしても書かざるを得なかったという結末部分に触れられているが、絶対にあった方がいいと思う。清々しいからではなく「鳥」の選択した宇宙の先を考えられるからだ。
彼は火見子の言うところの、数ある宇宙の1つを選んだ。希望の先に忍耐のある宇宙を選んだのだから。


 「万延元年のフットボール」も障害児の誕生から繋がる再生の物語で、そっちを先に読んでいたのだけど、こっちを先に読めばよかった。
大江健三郎の登場人物ってなんとなく獣じみてるな〜って思うんですよ。
 しかも、そこが一番怖いところ。
「芽むしり仔撃ち」も「飼育」も「万延元年〜」も、人間らしさと懸け離れた仕打ちが徹底的に描写されている。暴力とか虐待とか性行為とか、理性の吹っ飛んだ行為が多いのは確かなんだけども、悪意どころか善意も醜い。
 この3作品は共通して閉じた田舎や山の中の森が舞台なんだよね。そこに住まう人の獣じみた行為と舞台が繋がっている。
 「個人的な体験」は都市が舞台で、殆どは火見子の家と病院とそのほか鳥にとって関係ある場所しか出てこない。そこもちょっと違ったな〜。他の作品はあらゆる登場人物に嫌悪感を持つ瞬間があるんだけど、「鳥」が子供の死を願っていようがセックスに明け暮れてようが、嫌悪は感じなかったです(応援もしていた訳でもないが……)

 けれど私は「鳥」が最後に選んだ宇宙がこの宇宙で良かったなと、心底思うのです。

 他人の文章にハードルが全然ない私は、大江さんの所謂「悪文」が平気なんですけれども、その点でも「個人的な体験」は読みやすいかも。
 これか「飼育」がやっぱりオススメです。

 関係ありませんが、私は大江光と同じ誕生日です。
 自分の誕生日と同じ日付に始まる物語もなかなか無いな〜というわけで、
どこか特別にも身近にも思える作品なのかもしれません。


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