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名古屋市で行われた市民討論会での差別的発言について

名古屋城天守閣の木造復元計画のバリアフリー対策をめぐり、市民討論会の場で差別的発言が上がったことについて私なりの意見を述べたいと思います。

今回は、名古屋城が歴史的建造物として復元されていく中で、観光施設なのかどうか。というような議論も必要だと思いますが、今回はそこの議論は横に置いておき、障害のある方(車椅子ユーザの方)に対して、市民討論会に参加する市民からでてきた発言(上記記事参照)について考えたいと思います。

部外者がいろいろと口を出して申し訳ない気持ちもあるのですが、私も非常に考えさせられる内容だったので、noteにまとめています。

私は結論として、車椅子ユーザのニーズに対して、大衆の場において「わがまま」などと発言されたことは許容されるべきではないと考えています。その理由を考えてみました。

日本では障害者差別解消法以下のことが明記されています。

「全ての障害者が、障害者でない者と等しく、基本的人権を享有する個人としてその尊厳が重んぜられ、その尊厳にふさわしい生活を保障される権利を有すること(中略)全ての国民が、障害の有無によって分け隔てられることなく、相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会の実現に資することを目的とする。」

障害者差別解消法

今回の件は、一市民である車椅子ユーザがエレベーター設置について求めるということに対して、本人に我慢を強いるような発言があったと報道されています。
改めて考えてみましょう。車椅子ユーザの方の発言は本当に「わがまま」なのでしょうか。
障害者差別解消法では、障害を理由とする不当な差別的取り扱い禁止しています。今回は、「車椅子だと登ることができない」ということが、「不当な差別にならないのか」という視点で考えます。
その視点に立つと、車椅子の方が、そうでない方と同じ権利を享受(名古屋城に登る)されるために、エレベータ設置を求めることは、上記の法に則った的確な意見として理解できると思われます。なぜなら、「あなたにはできて、私にはできない」ことが障害を理由にするということは、差別にあたるからです。
つまり、「特別扱い」をして欲しいのではなく、「あなたが名古屋城に登ることができるのなら、車椅子に乗っている私も登りたい」というように平等を訴えていることになります。
よくよく考えると、「わがままだ」と言った方の権利を奪うことは全くないはずなのに、なぜ、自身に不利益を被ることのない人が、不平等であることを訴える人(車椅子側)の言論を抑圧させてしまうことになるのでしょう。

あのような開かれた場では、上記のような意見が出た場合、もちろん差別的な発言を抑止することも重要ですが、お互いに対話を通しながら落とし所を見つけていくプロセスも必要だったと感じています。
しかし、意見を述べると差別的な発言によって言論は封殺されてしまい、それが大衆に許容される空間の中で、建設的な対話はできるのでしょうか。

僕が同じ立場なら非常に怖い。

マジョリティ側の力動が大きく働いている中(発言に対して拍手が湧いたという報道もある)で、マイノリティ側が冷静に歩み寄り、対話の姿勢を取り続けるべきなのでしょうか。
どうしても、マイノリティ側の抱える負担が大きいように感じます。

このようにしてマイノリティ側の声がかき消されていくのだと感じました。

平等とわがままは一緒ではありません。しかし、エレベータの設置を求めることは、わがままでもなく「平等」にするための一つの方法であったと考えます。
それが「わがまま」だと思うのなら、他に方法はないのかともに考える必要があります。なぜなら、市民が参加している討論会の「市民」とは、さまざまな人が含まれているはずだから。普段から生活に困らずエレベータがなくても目的地に辿り着くことができる人も、バリアフリーがなされていないことで、目的地に行くことを諦める人も、その地域に住んでいたら同じ市民だと思うのです。

「あなたにはできるけれども、わたしにはできない。だったらこうして欲しい。」と、そのことについて一緒に考えることもだめでしょうか。

その発言は誰かを排除することになっていないでしょうか。

討論会はそのようなお互いで良く過ごすための方法を考える場となって欲しいと、切に願っています。

また、私も日常生活を不自由なく過ごすことができる「特権」を持っています。そのような特権を持ちながら、他者の考えを抑圧するような姿勢や対話を行なっていないか、今一度考えなければ、と思いました。

参考

https://co-coco.jp/series/study/makiko_deguchi/

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