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フィンランドでの時間が教えてくれるもの

私は今このnoteをフィンランドで書いている。

7月1日から始まった1週間の北欧旅行。
スウェーデンから始まり、昨日、つまりはこちらの日付で7月4日にフィンランドに到着した。

昨日は最後のスウェーデンをフライト時間ぎりぎりまで楽しんだ。

夕方、飛行機でフィンランドに着く頃には、もうヘロヘロでファーストフード店で夕食を取り、スーパーマーケットでロンケロ(フィンランドではポピュラーなアルコール飲料)を買い、ホテルで飲んで眠った。

そして、今朝9時にホテルを出て、辺りを散策しているのだけれど、フィンランドの首都ヘルシンキは本当に静かだ。

朝は皆、仕事に出ているのか遅起きサンなのか分からないけれど、道にいる人がそもそも少ない。

何か目を引く看板があるわけでも、ない。ただ、太陽のあたたかさと自分の内側に心を向けることしかできない。

静かすぎて、なんだかそわそわする。

情報過多なこのご時世。
静かなところ、情報量が少ないところは良い、と言われることを認識してはいるものの、そわそわが止まらない。

感じろ、私。今この静かな環境で感じられることはなんだろうと頭を巡らせる。

いや、そもそも頭を巡らせる必要がないから良いのかもしれない。こうやって内省できることも良いのだけれど。

でも、なんだろう。
わくわくはしないのだ。静かなところにいて。

元彼が静かなところが好きだったことを思い出す。生まれた、過ごしてきた環境の違いもあるのかもしれないけれど、私はあんまり理解ができなくて苦しかった。

見えるものがどんどん変わる場所で過ごすことが一概に自分を消耗させるものではないと思う。価値観の違いなのかもしれない。

けれど、じゃあ変化の少ない日常が嫌なのかと言われればそんなこともなくて。

繰り返す日々の中で、「イベントまで仕事を頑張る!」と話す人に、毎日は"こなす"感じなのか?と相手に聞いてないけれど、勝手にそれはちょっと違うんじゃないかと思う。

つまりは、きっと、日常だろうが、非日常だろうが、常に何かを感じて、慈しんで、生きていくことに私は重きを置いていて、それは時として、人の無意識な表情も含めた言動、世界のニュースや街中での音、見えたものに心がやられてしまうこともあるけれど、でも私は何かを感じ続けたいって思うのかもしれない。感じ続ける人生でありたいと思うのかもしれない。

海辺にあるカフェ・レガッタでライトローストコーヒーと、シナモンロールを頼む。


ライトロースト?と少し不安気に注文する私にお店の彼女は「yes!」と元気に返してくれて安心した。「お好みでコーヒーに入れてくださいね」とハチミツやミルクといったコンディメントを指差す。

コーヒーにオーツミルクをもやもやと液面に浮き上がってくるほどに足す。ひとくち飲めば、浅煎りのコーヒーにオーツミルクのまったりとした口当たり、柔らかさが舌を包み、癖になる。

包み紙から手にじんわりとつたわる、あたたかいシナモンロールを日向で食べる。見上げれば海辺の強い風によたよたと空を飛ぶ鳥。こちらの鳥は見たことない子ばかりだ。あとで調べよう。

わくわくする。

帰国したらコーヒーにオーツミルクを入れてみようと思う。日本のコーヒーは濃いめだから、たっぷりと注ごう。

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