贖罪なきサッカーに栄光なし〜日本サッカーはドーハの悲劇を克服できるのか?〜

11月23日、日本がドイツを逆転で破り日本中が盛り上がった。長野の実家でこの試合をテレビ観戦していた私の寝ぼけた頭が、同点弾で覚醒し、決勝点のゴールで踊り狂った。この勝利は逆境からの起死回生を見せてくれ、先の見えない日本社会の闇に一条の光が刺したように思えた。

11月27日、初戦でスペインに7対0で敗れたコスタリカとの対戦は楽勝とまではいかないが、おそらく引き分け以上ではあるだろうというのが大方の本音だった。しかし、結果は日本が0対1で敗れた。天国から地獄に突き落とされたような敗戦であった。

この二試合についてサッカー専門家諸氏は様々な分析を繰り広げているが、日本のサッカーとは何か?という哲学的主題に対して答えを出さなければ、いつも結果に対して大喜びしたり、大泣きしたり大騒ぎの日々を費やしていくに過ぎない。

日本がドイツに勝利できたのは、ゴールを決めようと動いたからであり、日本がコスタリカに負けたのは負けることを回避しようと動いたからである。日本のサッカーが勝利主義に陥る時、結果は日本を見放したものに終わる。

前回のロシア大会のノックアウトステージ初戦、ベルギーに対して2点を先取しながら、逆転負けした分析は、四年前のスポーツ思考で試行している。
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負けを回避するために2得点を守りに行った日本は敗れたのである。その時のメンタリティから脱皮していない日本が残した結果が、コスタリカ戦であった。

ドイツ戦では前半にPKを決められ、後がない状況でチームがゴールを奪うことに専念したが故に勝利という結果が得られたのである。

ロシア大会でノックアウトステージに上がるため、予選リーグの最終戦で、日本はポーランドに対して0対1の敗戦を選択し、全く攻めないサッカーを展開した。ゴールに向かおうとしない運動は、サッカーとは呼ばれないが、その先の結果のためにこの試合を日本は捨てた。サッカーの女神はそのことに対してベルギー戦の結果を与えた。

驚いたことにその時の反省が日本サッカー指導部でなされていないことだ。時の西野朗監督がカタール大会前メディアで堂々とあの時の決断をよしとしているのを見聞して、今大会の日本代表が心配になった次第。ゴールを奪うための努力に命をどれだけかけたかが、サッカーの全てである。少なくとも自らをサムライと思うならサッカーの誠こそ示すべきだろう。

命を賭けた人事の結果については、天命を待つのみ、それが日本のサッカーであって欲しい。そうであれば、日本代表に夢を見る幼き魂たちが高潔なる志を持つことが代表になる道だと知り、サッカーに努力すること自身が道を学ぶことに繋がる。人格を形成するとはそういうことだ。マリーシアを駆使して、得失点差を計算して、策力を用いてトップに君臨することを学ぶのは政治家に任せておけばいいだろう。

本日、日本はスペインとのリーグ最終戦に挑む。突破のために勝利を目指すしかない状況に追い込まれた。勝利を目指すためにスペインの猛攻を凌ぐだけでは勝てない。ゴールをゲットしなければならない。こうなると結果を求めることと攻撃することが共鳴する。こういう状況の日本には期待できるかもしれない。

1993年、翌年のアメリカ大会本戦のために日本はカタールのドーハで最終予選を戦い抜いた。イラクとの最終戦に勝てば初に本戦出場となるところ、後半ロスタイムに得点され同点となり最後の最後に夢が砕かれた。こんなことが起こるのか?!日本中がどん底に沈んだような気がした。その時の日本代表にいた森保が今の日本代表の監督である。あの悲劇を実存的に体験したその人が、スペイン戦にどう向き合うか?ドーハの悲劇も本戦出場という確かに思えた結果の前に、最後まで走る努力を諦めた時だった。西野ジャパンが超えることのできなかったサッカー、勝利を超えた物が何かを見せられるか?

9時間後のキックオフを待つ。

(敬称略)

2022年12月1日19:00

明日香 羊

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編集好奇
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コスタリカは非武装中立の国。識字率が97%
軍事から教育に政治の中心を置いた結果、数々の平和構築に貢献している。
憲法9条の国、日本とコスタリカの戦いが0−1だったのはとても示唆的であった。
別の機会にスポーツ思考したいものです。

春日良一

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