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日本サッカーと世界平和〜オリンピズムを超えて〜

ワールドカップ(W杯)サッカーは代理戦争である。国と国が武力を持って戦うことを決められたルールの制約下、「素手」で戦うのである。武器を置いて戦うのは古代オリンピア祭の原点であり、それが近代五輪の平和構築思想に繋がるが、サッカーのルールは武器になる「素手」も使ってはならない。「手」(=武器)を使わないことが唯一のルールとも言える。それはまさに非武装中立の表現と言える。

オリンピックは代理戦争であることを巧みな表現で回避し、ナショナリズムを超えることを高々に謳うが、しかし国家を否定した場合、明らかにオリンピックの人気は急低下するだろう。ロシアがドーピング違反の制裁として、あくまでもロシアオリンピック委員会として平昌も、東京もそして北京も出場し、国旗や国歌を使えないということになったが、その制裁自身が、国家の存在を前提としている。オリンピックがナショナリズムを否定しながら、ナショナリズムを前提にしなければならない矛盾を、サッカーワールドカップは止揚しいているとも言えるだろう。

各国代表チームの戦いにはその国の文化、精神的風土、国民性が反映される。激しい戦いの中で勝利を求める姿は彼らが代表する国の民たちの必死の応援の対象となる、そして、勝てば勝利の天国が、負ければ敗者の地獄が齎される。サッカーはナショナリズムを隠さず、言ってみれば露骨に表現することで、むしろその先、すなわち国を超えた彼方にあるものに向かうように見える。ナショナリズムとナショナリズムの代理戦争の先にある調和への意志と思える。

さて、その文脈で日本代表を思考するとまさに「日本」が表出された戦いをしている。前号のスポーツ思考は対スペイン戦の9時間前に書かれた。https://genkina-atelier.com/sp/index.php?QBlog-20221201-1日本が攻めることをゴールにすれば実際の得点というゴールが来ると思考した。結果はその通りになった。誰もが願ってはいたが信じなかったスペインに逆転勝利を収めた。振り返ればドイツ戦もそうであった。攻めてくる欧州勢力に日本は耐えに耐え、そしてやられた瞬間にスイッチを切り替えた。そして見事に攻めに意識を徹して勝利を得た。

一方で、コスタリカ戦には多くが勝てる、少なくとも引き分けと思っていたら、やられた。コスタリカは守りを固め、ひたすら日本の攻撃に備えた。その守りの前に日本はなす術もなかった。技術的には可能だったが、心理的に不可能であった。

思えば、コスタリカは非武装中立の国である。軍隊放棄憲法を70年以上守っている。数千人の国内治安のために警察官や国境警備隊はいるが、1948年、内戦で人命が失われたことから、軍隊を放棄し、軍事予算をゼロにし、教育、医療の無料化を実現、中南米の平和構築に貢献している。

彼らの攻めないサッカーはまさにコスタリカ精神のメタファである。日本の攻めたいようで決定機を作れないサッカーに耐えに耐えて、足元にやってきた日本からのミスパスを蹴っただけだ。

一方、世界に平和憲法を誇るが軍隊としか呼びようのない自衛隊を有する日本の攻撃はその矛盾を表象する。やられたらやれるが、やられないとモチベーションが湧かない。日本を守るためには合理的に軍隊が必要だが、憲法9条の心は捨てたくない。攻めようとしているが攻めていない。

そして、日本のメンタリティを暴露する結果をまたしても(ロシア大会に引き続き)https://genkina-atelier.com/sp/index.php?QBlog-20180707-1、サッカーの女神は下した。クロアチアとの戦い、攻めにギアを入れた日本が今次W杯、初の先取点。前半43分という最大に有利な時間帯に女神はプレゼントをくれた。ハーフタイムで後半の戦いをグレードアップする時間も与えてくれたのだ。

しかし日本は先取点を守りたかった。怒涛の攻撃にギアをチェンジできなかった。この戦いを勝利するために、あと一矢を報いる覚悟がなかった。そしてやられた。その後は一進一退の展開にならざるをえず、延長の末にPK戦を与えられたことになる。

このPK戦の意味は、本当に勝ちたいのか?を問うことだった。選手に聞いても、監督コーチに聞いても、サポーターに聞いても、私自身ももちろん答えは決まっている。しかし、女神は聞いた。「本当に勝ちたいのか?」

森保監督が選手に聞いた。「PK蹴るものは?」誰も手を上げなかった。仕方なく「じゃあ」と手を上げたのが南野だったと聞く。巷でもサッカー専門家諸氏も、最初からPKの順番を決めておくべきだとか、立候補で良いとか、議論しているが、問題はそこにない。この試合を決めに行ってやるという戦士が一人もいなかったという事実が肝心なのだ。

サッカーは代理戦争だ。自らの勝利を求めるということは、相手を打ち負かすということだ。憲法9条の国にはそのメンタリティが育っていない。だから9条を改正しろとはならない。むしろ9条の国だからこそ非武装の代理戦争に全身全霊で挑み、日本のメンタリティが正当であることを証明しなければならない。その哲学があれば、日本に勝利がプレゼントされただろう。

今次W杯で日本が学ぶべきことは、「ポゼッションサッカーで行くべきか?守りからのカウンターで行くべきか?」ということではない。まさに百家争鳴の評論家、専門家の戦術論の前に、サッカー(スポート)をすることで日本の何を主張するのか?を問わなければならず、それは日本人とは何か?という根本的問いにも繋がるものだ。日本が日本である良さをとことん追求することだ。それを政治ではなく、サッカーという一スポートを通じて作り上げていくのが、日本サッカー協会(JFA)の務めであり、日本サッカーに関わるすべての人々のミッションなのだ。

そう思考した矢先、「日本代表が首相官邸に総理表敬」というニュースが入ってきた。田島JFA会長が日本代表監督と選手を引き連れてノコノコと首相官邸に出かけて行ってお礼を言う。田島が感謝すべきは「お上」ではなく「お民」のはずだ。政治に「おべっか」を使いつづける限り、JFAにも日本のスポーツ界にも真の日本代表を望めそうもない。

ベスト16の壁の厚さをこのニュースで痛感した次第。

壁の前に倒れた選手の涙を一緒に噛み締めるしかない。

(敬称略)

2022年12月9日

明日香 羊

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編集好奇
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クロアチアとの熱戦。中国人の友人の経営する料理店で共に観戦。日本が長い彼も必死に応援していました。2016年のロシア大会の時は、全試合を彼の料理店で同じように貸切で観戦。家族や知人も呼んで大盛り上がりでした。その時のベスト8の壁はスポーツ思考していますが、今回もさらなる課題をいただいたようです。最強の侍とは?答えは既に出ているのかも知れません。

春日良一

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