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カナディアンロッキーで握り返した夫の手

前回の投稿でも書いてきたのだけれど、私の夫は2019年の秋に、多発性骨髄腫という血液ガンだと診断された。その後、4ヵ月の抗がん剤投与を経て、2020年3月半ばに、幹細胞移植という、自分自身の健康な血液細胞を抽出して増やし、また自分の体に戻すという治療を受けた。

一時は歩くことさえ困難で、20歳ほども年かさが増したのではないかと、近所の人に驚かれた夫も、幹細胞移植の後少しずつ体力を取り戻していった。癌の治療が始まった頃は、車輪のついたウオーカーを借りてきてつかまり歩きをしながら、家の前を10メートル歩けばいい方だった。それから30メートル、50メートルくらいに増やしていき、4ヵ月以内にはウオーカーも必要なくなった。 多発性骨髄腫が夫の腰椎の一つを冒し、外れてしまっていたのだが、骨を強化する治療を受けて、外れたままの腰椎は何とか固まったのだそうだ。

とにかく夫は、できるだけ毎日リハビリのために歩いた。私や子供たちも、交代で一緒に散歩に行ったので、夫が徐々に体力を戻していることが分かった。高校生の娘と小学校高学年の息子が、弱っている夫に付き添って歩く姿を見て、子供達が小さい時、夫がこの子達の手をつないでゆっくり歩いていたなあ、と思い出した。大好きなパパをいたわって歩く子供達は、コロナ禍にあって、「自分たちがパパを守るんだ。」といい、言われなくても率先してしょっちゅう手洗いとマスク着用を心がけていた。

幹細胞移植を無事に終えてから3ヶ月、家の近所やカルガリー市内の大きな公園をほぼ毎日歩いて体力を養った夫は、夏にハイキングに行こうと言った。私たちの住むカルガリーは、バンフ国立公園まで車で一時間半くらいかかる。そのバンフの手前に、ケンモアという町があって、カナディアンロッキーの眺めを楽しみながら歩けるハイキングコースや散歩道が数多くある。私達は、アウトドアスポーツが大好きな夫の友人と一緒に、グラッシーレイクという、エメラルド色をした湖に向かって山道を登った。途中、恐竜が本当にいたらこんな声だったのだろうか、と思うような恐ろしい吼声が山中に響いた。それから何ともいえない、大きなザザ、ザザ、という音がして、道往くハイカー達が皆いっせいに足を止めた。「あれは熊の声だよ。木の幹に体をこすりつけてるんだ。」と友達が教えてくれた。幸い、熊は姿を現すことはなかったが、ハイカーの多い日だったから、熊も私たちと同じくらい怯えていて、だから威嚇したのかもしれない。

この日以来、夫は止まっていた時計の針を進めるように、積極的に山歩きや日帰りドライブを計画した。本人は、「やっと元気になったんだから、夏と自然を満喫するんだ!」と言っていたが、思ったら即実行という思いきりの良さが、癌にかかる前とは格段に違う。

そして、2021年の春休み、私たちはバンフ国立公園の中の、片道2.25キロで267メーターの勾配を登るという、トンネルマウンテンのハイキングに挑戦した。雪もしっかり残っていて、ハイキングブーツを履いていても所々かなり滑りやすい道だった。私が進退極まって躊躇していると、夫が手を差し出して、私を引っ張り上げた。「ほら、頑張れ、ガール。」と言いながら。移植が終わって一年後、そして、夫が私の手につかまって何とか歩いた時から一年と半年後、私はその手を握り返した。


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