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やるかやらないか、きっと選択肢はシンプルなんだ

4月、PTAが解散され、新しく立ち上がった組織を回していくことで、瞬く間に時間が過ぎ去っていったように感じています。

大きな波を引き起こしてしまったと思う一連のPTA解散会議

改めて振り返って思うのは、PTAのためのPTAは不要なんだということ。
けど、きっと、我々は原点回帰しようとしただけなのかもしれないと思うこの頃です。
「子ども達のために」と言いながら、大人の事情でできるできない、という議論をしていることそのものがナンセンスなのではないかと思う。
「子ども達のために」何を親として求めているのか、幸せな学校生活とはなんだろうか、親も子も満足感を感じることのできる幸せな「学び」とは何だろうと、想いを馳せています。

前例踏襲や慣習という足枷

学校の先生方と話していると、前例踏襲や、慣例を抜け出せない、見えない足枷みたいなものがあるのかなと思ったりもします。
けど、よくよく考えると、その足枷を付けているのは自分自身の思考そのものでしかないことも見えてきていて、もちろん、教育委員会やら指導要項やら色々くっついているけど、やり方って色々あるんだとも思えてきました。

言い訳していても、誰も幸せになれないと思う

先生も不平不満を言い、児童生徒も不満を口にして、親も納得がいかない、こんな学校教育に未来を感じるのはやっぱり難しい。
誰得でもないのなら、一人一人の意識と行動の変化で「幸せ」を追求していけばいいのではないかと思う。

新しいことをやるのだから、失敗だってつきもの

それはきっと失敗ではなく、上手くいかなかった方法が見つかったに過ぎなくて、必要なプロセスの一つでしかなないのだと思う。
やってみて上手くいかなかったのなら変えれば良い。
子ども達にもそれを理解してもらえば良いんじゃないかと思うし、試行錯誤する先生や大人達から学ぶことだってあるんじゃないかと思う。
そして、何より、子ども達の方がよっぽど学びの当事者として、大人達が思うより遥かに飛び抜けたアイディアを持っていたりする。
子ども達の声に耳を傾けることは本当に必要な事。
「知らない」から「教える」なんて考えは古いと思う。
「子ども達」から「学び」つつ、それらの思考と探索を深めるためのファシリテーションを行っていけば、自ずと子ども達は自発的に学ぶのではないかと思う。
もちろん、そこには色々な課題もあるのは、分かる。けど、それを考え伴走していくのが先生や親に求められているものなのかもしれない。

結局、言い訳をしているのは大人達

答えはきっとシンプルで、「やるか」「やらないか」それだけだと思う。
やりながら、しなやかに変化していけばいい。答えは一つじゃないし、初めから完成形なんて訳でもないから変化しない方がおかしい。まして、時代は変化し続けるのだから、完成形なんて訪れないのだと思う。

学びと社会とつながっていくことを目指して、今できることを一歩づつ進めていきたい。

「今」動く。

子ども達の1年はまったなしです。先延ばしにすることをやめて、「今」行動に移す。
そのために、毎月「学びの魅力化」のため、一人一人の意識と行動に変化を起こしていくために、保護者・先生・地域住人があつまって話し合いの場をもつことにしました。机も資料もない、輪になって自由に話す場。とはいってもロードマップはある。年内には一人一人が児童生徒の前で行動宣言して具体として動いていけるようにします。

PTAではできなかったこと。けど、PTAでもきっとできたと思う。
我々は「変わる」というメッセージのためにもPTAから組織を変えることを選択し、だからこそ今の行動につなげることができているのだと思います。
そして、肥満化しすぎてしまって身動きのとり方を忘れてしまったかのような組織体質を完全にオールリセットしたにすぎないのだと思います。
「子ども達の学びのために」初めて先生方と保護者で膝と額を突き合わせて汗をかいて話し合いができていると思います。
温度感まちまちですよ。けどね、それって置き換えれば子ども達の学びの中で先生も親も今後活かしていくことができるシチュエーションだと思ってます。それすらをもが学び。

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