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上北台に置いてきた思い出

「ねえ、上北台って覚えてる?」
「覚えてる!覚えてる!よく練習試合行ったよな〜」
「だよね〜!めっちゃ遠かったよな」

JR新宿駅の東南口を出てすぐの居酒屋で、高校時代の男子バレーボール部の同期や後輩たちと集まっていた。

この日は、キャプテンだった隼人が来年関西に転勤してしまうため、送別会を兼ねた飲み会を開いたのだった。当然、懐かしい話はするわけで、その中で上北台駅が最寄りの高校に行ったという話が出た。

上北台とは、東京都東大和市にある多摩モノレールの終点駅だ。私たちが住んでいた地域からは1時間近くかかるため、土日の朝に上北台が最寄りの高校で練習試合をするときは結構ハードに感じていた。

懐かしい地名が出てみんなが湧いた一方で、私はキャプテンの隼人との苦い思い出が蘇っていた。


自分たちが最高学年となった高校2年の晩秋、チームは全国大会出場も夢じゃないという周囲からの期待を受けていたが、なかなか調子が上がらずに負けが続いている状況だった。

部員のほとんどがなんとなく自信を持ちきれず、怪我が続出したこともあって互いにイライラしていた。

特に私はセッターというポジション柄もあってか、チームのほぼ全員とコミュニケーションを取らなくてはならず、敏感かつ繊細な自分の感情をうまく処理しきれず、部員たちと正面きってぶつかるのがどうしてもできなかった。というか怖かった。

「なんで怪我してんだよ」
「やる気あるのか?こいつ」
「こいつばっかりわがままいいやがって」
そんなもやもやした感情が心の中にうずまき、自分自身も思ったようなプレーができないこともあって、苛立ちはピークだった。

そんな中、上北台駅の近くの高校で練習試合をしていて、ついにぶつかってしまった。
「おい、環!今のトス俺にあげろよ」
「あ????無理に決まってんだろ」
隼人からの指摘に、怒りをぶちまけてしまった。この小さな喧嘩のようなことが、そのまま引退するまで響いていってしまうとは、互いに想像ができなかっただろう。

悪いのは私なのだ。なぜなら、隼人から声を荒げて強く言われたことがショックで嫌だったにも関わらず、「じゃあもっと上手くなれば良いんだろう?」というよくわからない意地に変わってしまった。黙らせてやるから待っとけみたいな気持ちだった。

本当はもっと素直に、そういう言い方をやめてほしいとか、うまくなるために協力をしようといえば良かったのだ。なのに、なぜかわからないが、「悔しい」という気持ちを持ち続けることによって、自分の成長のバネにするという方向を選んでしまったのだ。


チームはその後、順当に強くはなったが、関東大会に出場するレベルで実力が止まってしまった。全国大会には出場できず、引退試合でもレベルが下のチームに負けてしまい、親友でもあるマネージャーが私たちの前で初めて泣き崩れた。その光景を思い出すと、いまでも自分の浅はかさに涙が出そうになる。

ただ、隼人とは大学時代にようやく打ち解けた。浪人をしていた隼人がOBとして久しぶりに体育館に現れたとき、私もOBとして後輩の練習を手伝いにきていた。なんとなく気まずい雰囲気を、ほかの先輩が流してくれて、同じコートに立って後輩たちとの試合形式に臨んだ。

自分も隼人も水を得た魚のようだったと思う。どんなに仲が悪くても、どんなにお互いに火花を散らしていたとしても、同じチームで汗を流し、私があげたトスを何度も打ちこなしたのが隼人なのだ。

私があげたトスを綺麗に打ち込む隼人は、飛び抜けて強かった。後輩のブロックにかかることはなく、どんどんと点を量産していく。他のセッターや先輩があげるトスではうだつの上がらない選手にさえ見える隼人が、輝いているのは間違いなかった。


いまでも覚えている。私がコートのかなり後ろの方からどうにかして上げたトスを、隼人が打ち込んで点数を取った。私はトスをあげたあとに床に転がり、打つところだけをみていた。本来だったら次のプレーにうつらなきゃいけないのに、「決まる」とわかったからだ。あの光景は死ぬまで忘れないだろうと思う。

「ねえ〜!環と隼人がなんで話しているの?とか誰かいじった?現役時代にも話してくださいって誰か言った?」

親友でもあるマネージャーが私をいじる。そして全員が笑う。

上北台から始まった悪夢が、こうして良かった思い出になるのだから、人生ってわからないものなんだなとか思ってしまう。


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